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真のファンとは@昭和4年の『歌劇』 [昔の『歌劇』など]

ある日の客席。隣の人の態度が悪い。開演中なのにお菓子食べるし。ビニール袋かさかさ言わせすぎだし。タイトスカートなのに足広げすぎだし。(それは観劇態度の問題じゃないけど)

なのに、生徒(観劇に来た他組の生徒)が幕間に次々挨拶して通るのよ。「わー、お久しぶりです〜」とか言って。

何それ! こんな観劇マナーのなってない人と知り合いなのか、君たちは!? っていうか、コイツ、生徒の知り合いなのに、そんな態度悪いの!?

それと同じことが、すでに80年前にある。

「ファン抹殺論」と題する、昭和4年10月号「高声低声」への投稿。

宝塚には所謂ファンと自称している人が沢山居る。けれども僕はファンと称しているそれらの人々を憎まずには居られない。宝塚を純正に愛好していると云うよりは其の人達はただ徒に宝塚へ行く事の多きを誇っている状態ではないか。 彼等は歌劇を見ることが楽しみではないのだ。彼等の最も得意とする処は、座席の前部に陣取って自己宣伝をなし、内部の人と交渉あることを誇示し、そしてなおいけない事は彼等は如何にも彼等がファンの代表者である如き口を利いて歩くことだ。彼等は断じて宝塚を愛しているとは云えない。彼等こそ宝塚を毒しているものだ。(片岡有為男)
(注*当時は「ファン」という言葉がまだ珍しく、今でいうファンのことは「宝塚党」などと言ってたんですね。だから「ファン」は特別なファンを指しているんです)

生徒と知り合いである、いい席に座っている、たくさん観劇している。=利益を得ている。なのに、態度悪い。

自分は生徒と知り合いでもないし、いい席にも座っていない、たくさんも観劇できない。=利益を得ていない。なのに、態度は悪くないはず。

理不尽だーー。

今も昔も、思うことは同じなんだなあ、と。

特に当時は、前売り方法に対する不満が多くて。朝早くから並んでもいい席が取れず、窓口の係員が後から来た知り合いに前方席を売っちゃうとか、ちょっと信じられないようなことがあったようです。それに、当時は生徒ごとのファンクラブはなくって、地域ごとの集まりがあるんです。阪神宝塚会、名古屋宝塚会、etc. それらが力を持っていたみたい。なので、そういった特権階級的なものに対する嫉妬というか、そういう視線があるんでしょうね。

それに、美しい生徒さんは夢の世界の人。そんな人とお近づきになりたいというのは、誰しもが思うこと。近づいてしまったら、もう夢の世界の人ではないんだけど、でも近づきたいという衝動は誰しも持ってしまうもの。

だから、なおさら理不尽感が募る。

では、正しい宝塚党のあり方とはどういうものなのか。何が美徳なのか。

そこで、同じ年の1月号に掲載された小説「くずるる白薔薇」(水原鏡子)。

主人公は女学生。憧れの生徒がいるが、そのことを友達にも言わない。心に秘めている。

自分は宝塚を愛している、一心に、誰れにも負けず愛している、けれども自分の宝塚への愛は、常に静かに、常に純でなければならない。静かに、じーっと愛しているのだ。お友達の誰れ彼れのように、手蔓を求めて生徒に交際したり、贈り物をしたり生徒と連れ立ってこれ見よがしに宝塚の廊下を歩いたりーそんな不純な、虚実に満ちた、陋劣な、自分の見栄の為に宝塚を愛するようなそんな利己主義的な愛し方を、自分は心の底から軽蔑しているのだ。

しかし、主人公は結核に倒れてしまう。憧れの生徒の舞台があるが、出かけることができない。最後に一目、あの方の舞台姿を拝見したい…。そしてこの思いを伝えたい…。なんとか医師に頼み込んで、千秋楽の観劇を許してもらう。そこで彼女は最初で最後のファンレターを書く。「千秋楽の日に赤いバラをつけて踊ってもらえませんか」。憧れの生徒は赤いバラを胸につけて踊ってくれた! しかし、主人公はその日、病状が悪化して、舞台を観ることなく死んでしまうのです。。。。

泣ける、泣けるわ〜。なんというセンチメンタリズム。

結核は今よりもずっと多い病気だけど、それにしても、このセンチメンタリズムこそが大正〜昭和初期の特長であり、今も続く宝塚の特長なんだな、と痛切に感じますね。

今だって、所詮ファンって、ただ見つめるだけじゃないですか。ただ想っているだけ。生徒はその想いを受け止めるだけ。だってジェンヌさんってそもそも架空の存在だし。今のシステムの中で、一番近いのは、お手紙渡しかなあ。ただ渡すだけ。ただ受け取るだけ。返事とか来ない。だけど、何か信頼関係に基づいて想いをやりとりしている。うーん、究極。

今も昔も、ファンの想いは変わらないんだよね。

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ニーズ無いとは思いますが、このシリーズ続きます。多分。

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サイド・ショウ(東京芸術劇場 4/17 16:00) [観劇メモ(ヅカ以外)]

深いなあ…。ずしんと来る。これはすごい。すごい舞台だよ。

1920年代のアメリカ、シャム双生児の歌手の話。

差別ってなんなんだろう。今ではなくなったけど、昔はあった見世物小屋。そこにいる人たちだって(「だって」って言い方がすでに差別だ)、夢や誇りがある。かといって、そこ以外では生きにくい。だからと言って、ひどい待遇は良くない。でも、どうしようもない。

シャム双生児の美人姉妹はスターになろうとする。見世物小屋なんかじゃなくて、ちゃんとしたショーの舞台に立ちたい。映画に出たい。喝采をあびたい。歌が上手くて喝采をあびる。でも、じつは、単にシャム双生児だから注目されてるだけ? 名前ですら呼んでもらえない。結婚式ですら、イベントの演し物になっちゃう。見世物小屋から出て来たつもりなのに、全然変わらない?

今はそういう見世物はなくなったけど、でもたいして変わってないかもね…。オカマキャラ、デブキャラ、愛されていつつもあり、嘲笑されてもいて。演劇や芸能界と、見世物小屋と、もちろん人権意識は全っ然違うけど、だからと言って、まったくの別物とは言えないんじゃないか。役者はかわら乞食と呼ばれていたわけだし、歴史的には地続きのものだ。

だって私、姉妹の二人がくっつている様子(衣装がくっついているわけではなく、すべて演技! すげえ!)を、思わずじーっと見てしまうもの。わー、くっついてるよ、と。その演技を賞賛する意識より先に、不思議な肉体を反射的に見ようとしてしまう。この行動と、昔の人がシャム双生児を見世物にしたことと、どこが違うのかと言われると、わからない。

2幕は、姉妹の恋愛の行く末でストーリーが突き詰められて行く。「かわいいから好き、結婚しよう」と軽々しく言っちゃう男。好きは好きなんだろうけど、無意識で自分の売名行為にもつながっている。一方で、好きだけど、責任とれないから軽々しくは気持ちを口にしない男。でも、やることやっちゃう。もう一人、いつもそばにいて世話をしてくれる、信頼できる男。彼の愛を、妹は拒否する。「肌の色が違うから」。差別される側でもあり、する側でもあったのだ。

きわめて特殊な話です。だって、客席の誰もシャム双生児ではない。その気持ちを味わったことがない。

だけど、なぜか共感する。「ありのままの私を愛してほしい」「普通って何?」状況は特殊だけど、感じる感情の種類は一緒だ。過酷なだけに、その感情がより強く伝わる。だけど出口がない。無難な解決方法が全然ない。どうしたらいいかわからない。

特殊な話を、特殊ではなくした手腕がすごいと思う(最初に作った人)。ただ、話運びがちょっと唐突だったかな。全編歌なので、もう少し演技にタメが欲しかった(これは演出の問題?)。

とにかく主役の二人、かしげ(貴城けい)と樹里ぴょん(樹里咲穂)がすごいのよ。くっついているように見せるフィジカル部分もすごいけど、演技も歌もよかった。かしげは女性の歌も難なくこなせるようになってきた? 普通の結婚がしたい、おとなしい女の子にクラシカルな美貌がぴったり。樹里ぴょんは持ち味がもともとアメリカンで、スターになりたい、しっかりした女の子にぴったり。二人の声質は似てないと思ってたけど、デュエットもきれいだった。(そういえば、『Romance de Paris』で銀橋で二人、バリバリ歌ってたね〜、男としてだけど(笑))

二人を支える岡幸二郎が、今までになくマッチョなキャラでちょっとびっくりした。さすが上手くて、説得力ある。黒人ってわかるように塗ったほうがいいのでは。伊礼彼方はまたアホな熱血青年で(笑)。下村尊則さんは初めて観たけど、いい低音だね〜〜。しかし、白燕尾でのソロをヅカファンの前で見せるのは、あまりにもチャンレジャーすぎる(笑)。大澄賢也が髭はやしての、見世物小屋のボス熱演。目周りのメイクももっとしたらもっと怪しくなったのにー。

そして、衣装がと〜ってもかわいかった。双子の二人が次々お着替えするんだけど(ショーのシーンもたくさんあるし)、どれもがかわいい! でも、二人ってのがかわいさを増しているんだろうな。双子とか、二人組って、なんか惹かれるじゃないですか。ザピーナッツとか、winkとか、エッチンタッチンとかさ。姉妹がくっついたまま、いろんな踊りを見せてくれるのが、すごーくかわいくて……ああ、だからこの話、さらに切ないんだよね。

再演希望! 

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<自分メモ>結婚式が演し物になったテキサス100周年祭って? 愛のトンネルって、遊園地のアトラクション?
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戯伝写楽(青山劇場 4/12 18:30) [観劇メモ(ヅカ以外)]

いやー、面白かった! 今年に入ってから一番ぐらいに面白かったかも。(追記:ウソ。カサブランカがあった)

テーマは、芸術に対するいろんな人の葛藤、かなあ。

見たままを写し取ることが楽しくてしょうがない天才(おせい=写楽)と、そこまでの才能がない男たち、宮仕えを優先してしまった文人、利用したい版元たち。ありのままの自分を描いてほしくない役者と、ありのままの自分を描いてほしい花魁。

どの人の気持ちもわかるなあ。しかも、蔦屋重三郎、大田南畝、北川歌麿、…有名な人ばかりなので、入り込みやすい。じつは、後の○○でしたー、ってのもあって、「へーへーへー」っていう驚きもある。上手くできてる。

セットや音楽は全然今風で、おせいは金髪だし。江戸時代なんだけどファンタジーって作り方もよかった。

花魁のソニンがすごかったなあ。背が低くて子どもみたいなんだけど、声がいい。そのギャップが花魁の色気になる。始終世話をしている使用人の存在が意味深で、ドキドキしてたら、やっぱりそういうことだった。最後にこの人が、真の自分を描け、とおせいに迫り、普通に考えたら目をそむけたくなるような状況なのに、おせいが目を見開いて、しかもすっごい笑顔でいるところが、鳥肌ものだった。

おせいの不思議ちゃんぷりもかわいくて。タニ(大和悠河)にしかできないよ、あの透明感、ふわふわっぷりは。まあ、歌は相変わらず下手だけど。そして、発声が変すぎだけど。戦前の女優さんみたいに、高い声出し過ぎてこもっちゃってて。あれ改善しないとまずいだろう。無理に高い声にしなくていいのに。

歌舞伎や花魁の場面での怪しさはさすがオギー(荻田浩一)で。そういえば、宝塚ではオギーは日本もの、やらなかったよねえ? 見たかったなあ、オギーの日本もののショー。

そうそう、脚本は中島かずきだけど、演出と作詞はオギーということで、オギーの歌詞を楽しみにしてたんだけど、音響のせいか歌詞が聴き取れなかった。打楽器が多い音楽だからかな? 音楽も素敵なんだけど、歌詞も聴き取りたいんだよー。

ラスト、天才には天才の落とし穴があって、それをどう収めるか(真実を突き詰めすぎて、淵を覗いてしまって、という下りは、ヅカファンとしては、オギーという天才の苦悩かしらと勘ぐってしまう)。意外なオチだったけど、これが粋ってものなんでしょうか。齊藤十郎兵衛(写楽だと思われていた人)役の橋本さとしの、すべてが冗談みたいなのに、じつはマジメかも、という雰囲気がすべてを包んで、ハッピーエンド(かな?)で終わった。

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彩吹真央 お茶会(4/11) [お茶会報告]

シアター形式で1600〜1800人ぐらいはいました。ぎっしりです。

待っている間、過去のお茶会から、歌特集や、撮影会特集として映像を流してくれました。シアター形式だと歓談しにくいから、なかなか気が利いています。その映像を見ていると、まだ幼い顔立ちのユミコ、かっこいいユミコ、いろいろで、あー、あんな役もあったねー、とか思いだし、その重みが徐々にのしかかってくるようです。

でも、登場したご本人は楽しそうで。ファンの方が作った川柳(あやぶきまおの6文字で始まるっていう縛りなのかな?)をユミコが選んで表彰するのですが。「辞めるなら息子の嫁に来い」とか、笑えるのがたくさんあって。ファンがそこそこ平等に参加できるし、ユミコに選んでもらえるしで、いい企画ですよね。

もちろん泣ける川柳もいっぱいありました。最後「退団について語ってください」というコーナーで、「みなさんの中にも、悲しいとか悔しいとか、いろいろな思いがあると思いますが、それもいつかきっと癒されると思います(私は幸せだから、そんなに悲しまないでね、という意味)」…自分だって悲しい悔しい思いをしただろうに、ファンを思いやるその心の大きさ、美しさ! ここで自分の涙腺は決壊。こんな高い精神性を持った人を産んだタカラヅカという<文化>はやっぱり素晴らしいと思う。

一方で、某組のトップさんよりよっぽど多くの人数をお茶会に集める人が、なぜにトップになれないのか、という…。(いや、そのトップさんたちも好きなんですけれども、単純に数値で。)やっぱり歌劇団という<組織>はおかしい。

年末のタカラヅカスペシャルにしろ、今回の公演にしろ、演出家がユミコに花を持たせようとしていることはわかった(タカスペで演出家のすぐ後ろに座った友人が、「演出家たちは、すごい拍手をユミコに送ってた」と報告してくれた)。歌劇団という<組織>と、演出家とは全然イコールではない、ということがわかった。TCAだってスカステだって、粋な計らいをたくさんしてくれている。「鎮魂」だなあ、と思う。惜しまれる人をしっかり惜しんでおかないと、悲しい悔しい思いが残ってしまう。演出家もTCAもスカステも、そこのところはわかってるらしい。

じゃー、なんでトップにしないのかと。「鎮魂」の儀式をたくさんできるんなら、なんでトップにしないのかと。結局そこに戻ってしまうんだよな…。それだけトップの座っていうのは特殊でアンタッチャブルなものなの!? 

話が逸れました。

終盤は、ご本人も時々泣きそうになってて、それを我慢して「へへっ」って言うのがチョーかわいかった。歌のプレゼントは、エクトール先生のソロ。「いつもはエクトール先生として歌っているけど、今日は自分自身としてみなさんを思って歌います」という説明のところからしてすでにかなり泣いている。(でも歌い出すとしっかりしていて、さすが)

最後はサプライズで、二色のうちわを使って、ユミコから見えるように大きなハートを作りました。ユミコを泣かせる(すでにさんざん泣いてたけど)のに、自分も1/1800ぐらい参加したかと思うとちょっとうれしい。

4/25まで、ユミコさんも、ファンのみなさんも、頑張ってください。

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あ、すごい変なこと思い出した。フレパで当たりすぎたたわしについて、下級生が言ったそうです。「たわしで赤十字を書けばいいんですよねー」…次からあの場面笑っちゃうね。

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タカラヅカという<組織>が俺を裏切ったとしても@音楽学校裁判 [音楽学校裁判]

傍聴記録を読むかぎり、音楽学校の負けは100%確実だと思われる。

仮処分に二度も従わず、HPにも「正当性を主張する」と書いていたので、よっぽど正当な理由があるのか〜? と思わなくもなかったが、蓋をあけてみたら、正当な理由は全然無かった。失笑ものだった。

なんでオオヤケの裁判の場に持っていったんだろう。仮処分を受け入れておけばまだマシだったのに。96期生の顔も名前もオオヤケになり、マスコミにも取り上げられ、イメージダウンは甚だしい。いいことは一つもない。そんな判断もできない組織なのかと思うと呆れる。それなのに、何事もなかったように、初舞台が行われるとは、しらじらしいにもほどがある。

一つだけいいことがあるとすれば、この際に膿を出して体制を改善すること、かなあ。これまでも散々言われてきた、いじめ。大昔からあるけど(本読んでるとよく出てくる)、ここまでおおごとになったのは、やはり程度が増しているからと推察されるわけで。判決が出た段階で、人事を入れ替え、謝罪の記者会見を開いて。…んな頭、ないか。

イヤなら観なけりゃいいじゃないか、と言われそうだが、それはちと違う。なんなのかなー、これは。うーん、怒りなんだよね。

タカラヅカという<文化>を、宝塚歌劇団や音楽学校や阪急という<組織>が冒涜していることに怒りを感じる。もちろん、後者がなければ前者はないんだけど、でも、別もの。私は別に、組織に心酔しているわけじゃない。タカラヅカという文化が気になる、大事にしたいだけなんだ。(今まで、一作トップとかでひどい目にあってきたファンの人ならもうじゅうじゅうわかってることなんだろうけど、すみません、いまさら)

無形文化財にしてもいいぐらいの男役芸、娘役芸、信じられないぐらいの集中力で見せてくれるパフォーマンス、過酷な状況で頑張っている生徒(こうなってみると、頑張っている生徒は全員じゃないのかも、という懸念がリアルになってしまったが)、ほかでは大きな団体がもうなくなってしまったレビューの文化、大正時代から続く女学生文化、アマチュアを愛でる文化、清く正しく美しくというアホみたいなでもじつは大切な建前…。

『ロシアン・ブルー』のユーリ先輩の決め台詞「革命が俺を裏切ったとしても、俺は革命を裏切らない」は、厳密に言えば、「革命<政府>が俺を裏切ったとしても、俺は革命の<精神>を裏切らない」だよね? だから、「タカラヅカという<組織>が俺を裏切ったとしても、俺はタカラヅカという<文化>を裏切らない」なんだ。おお。ユーリ先輩のように言える人は<組織>の上層部にはいないのか!? (いたら、こんなことになってないか…)

<組織>に忠誠を誓えない自分は、根っからのヅカファンではないんだろうなと思う。。。初舞台のロケット披露風景をスカステで見て、「あー、このノリ、別に好きじゃないんだった。一生懸命(のふり)すぎてコワい。」と思い出した。もともとアンチヅカだったんだ、自分。タカラヅカの神髄は「少女性」だと思うのだが、それが良く転べば「一途」、悪く転べば「狂信」。少女たちにしかできないタカラヅカ。だからこそ、「狂信」に転ばせないで<文化>の高みに持って行くには、相当の注意が必要。その注意を<組織>が怠ったら、途端に汚いものになる。

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虞美人 初演の脚本を読みました [観劇メモ]

初演、再演の白井鉄造版の脚本をゲットしました。

話はこびは、原作である長与善郎版にかなり忠実です。

ただ、オリキャラがいます。長生、万林、千林、菫花、紅林。最後の二人は女性です。片方が美人で片方が不細工。『真夏の夜の夢』のハーミアとヘレナみたいなもんでしょうか。彼らは狂言回しで、「秦の始皇帝がさー」とか、「項羽ってすごいらしいね」とか世間話をすることで、客席に状況を説明しています。今だとかなり寒〜くなっちゃうかも、っていう役どころです。

しかも、男性たちは兵士になってストーリーに参加するんです。不細工キャラの紅林も、芝居の最後には、意外な人生を歩んでいることになっています。

だからね。脚本読んだだけの印象ですが、「戦に翻弄されて、女の一生っていろいろだよねー」的な話に思いました。虞美人は項羽とラブラブだけど(だから?)自害する。でも幸せ。呂は野心を遂げたけど不幸。桃娘は親を殺され、ひどい目にあったけど、いい夫を見つけた。その対比をより強調し、観客が感情移入しやすくするために、紅林という庶民の女性が登場する。

時代的なものもあるのかも。だって、劇中に「男女同権の世の中」とか「ジープで立ち去る」とか、ブギのリズムとか、戦後すぐの流行りが登場してるんです。終戦から6年、まだアメリカに占領されている日本。夫が戦死した人、帰ってきたけど…という人、いろいろだったに違いないです。そう思うと、「戦に翻弄されて、女の一生っていろいろだよねー」はかなり、重い。

虞美人と呂と桃娘の3人で行われるヒステリックな場面は、白井版では夢オチということで虞美人の名誉を守ってはいますが、やはり原作どおり登場します。キムシン版でも、状況は違うし虞美人のほうが優位だけど、やはり3人がいて、戦う男に付き従う女の運命みたいなものを語ってますよね。なので、このテーマはキムシン版にも受け継がれているのではないか、と思うのであります。

ただ…紅林という名前。キムシン版では、一花ちゃんが演じている稚児の名前として使われているわけで。意味的には全然つながりないと思うんですけど…。キムシンはそんなにしてまで、一花ちゃんにお稚児さんをやらせたいのでしょーか。そんなにしてまで、お稚児狂いのまりんちゃんを見たいのでしょーか。気持ちはわかるけどさぁ、それを思いついちゃうキムシンって…。

*ちなみに、項梁エロ場面は初演再演ともにありました。←しつこい

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Carnevale 睡夢(東京宝塚劇場 4/4 16:00) [観劇メモ]

<よかったところ>

イタリアの仮面劇の人物たちが、現実なのか劇なのか、曖昧で意味深なところ(しかし、生徒さんの発言によると、あの人たちは単なる実行委員で、カーニバルの間だけ扮装をしていて、別に抽象的な存在ではないらしい…そんな解釈、つまらーん)

黒燕尾の振り付けとか音楽が目新しい(大階段がない黒燕尾というのが珍しいらしい)

いろんなところでいろんな小芝居がある

ニワニワがエロかっこいい!(リカちゃんの大海賊の衣装着てたけど、その驚きを軽く凌駕するオヤジっぷり…)あんなさんが瀟洒! 

ミナコのダークな使い方が正しい

いろいろやりたいことがあるんだろうなー、ということはわかった

<いまいちだったところ>

色彩感覚が、岡田敬二かハリーかってぐらいダサい

通し役のように見える人たちが、突然違う役になっていて、意味不明

小芝居がじつはあんまり意味深じゃない

盆とセリの使い方が単調。周辺に何もない状態でセリが下がったままで盆が回るから、「あー、あそこから誰か出てくるのねー」とバレバレで、誰か出てきてもすごい仕掛けがあるわけでもなく、しかもそれが複数回あった

全体的に、メリハリがなくてけっこうあっさり終わってしまった…

<まとめ>

ふとち、がんばれ。

キタロウくんの小芝居を確認するために、もう一回観よっかなー。ってチケット難だがなー

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アリス、お前もか…(涙)若返り政策なんか嫌いだ。
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ソルフェリーノの夜明け(東京宝塚劇場 4/4 16:00) [観劇メモ]

起承転結があった! ちゃんとストーリーになってた! テーマがあった! それだけでもベルばらよりマシじゃん! 

……なんとも低レベルな比較だ(笑)。でも私にとってはこの「話としてのまとまり」が一番大事なんです。

ストーリーは、ごくごく単純。主人公の「負傷兵の治療は、どっちの軍かに関係なく、行うべきだ」という主張が通るかどうか。日数にしたらほんの数日? 数週間? かたくなだったヒロインがそれに賛同するように変化し、最大のクライマックスは敵軍の将軍がそれを認める。それだけです。それ以外、何もないです。

テーマは戦争反対(だよね?)、それが無理ならせめて対症療法的になんとかしよう、という人道的なもの。観客の中で反対する人はまずいない。

つまりは、題材自体がシンプルで、とってもハードル低いってことだ。

それだけに、何の深みもないんだよねえ。ストーリー以外に、何の肉付けもない。『Romance de Paris』の銀橋での、軍隊は要るか要らないかの緊迫した歌に比べたら、なんて平面的な「戦争反対
…。

登場人物も、典型的な「捕虜」「部下をかばって死ぬ上司」「少年兵」「酔っ払いだが実は心に傷を負っている」「エリートだが野戦病院にやってきた医者」…彼らはみな記号にすぎなくて、キャラクターの背景とか考える余地がない。当然、萌える余地もない。

場面についても、こうすれば感動するだろ! みたいなパターンでできてる。よく、人が死ぬ場面でぜったい泣く、というタイプの人がいるけど、そういう感じで、「和解してアベマリア歌えば感動!」とか、「少年兵がいじめられればそれで泣ける!」とか、泣かせパターン。

でも、それを植田芝居の大見得切る手法で展開すると、意外に悪くなかったりして。

特に最後、敵軍の将軍が「敬礼!」という一言だけで主人公の主張を認め、そのあと一瞬の間、空白があり、突如「そるーふぇりーのー」と主題歌が入る、主人公が赤十字の旗振って花道を去って、幕! うわー、なんだこれ、この大見得! 鳥肌立ちそうになっちゃったよ、不覚にも…。(ハマコとミズの大見得芝居のおかげというのもある)

赤十字の話をなんで植爺がやるのかと思ってたけど、けっこう「命は尊い!」って主張は「ヨヨヨ…」っていう泣きにつながって、植田歌舞伎に合うのかも?

植爺の著書によると、終戦時に中学生だった植田少年は、焼け野原に心をいため、タカラヅカの豪華絢爛さに救われたとある。だから言いたいことがはっきりしてるんだね、この話。(ちなみに、プロローグが夢夢しいのは、植田少年が終戦後見たタカラヅカの美しさ=この作品で言いたいこと、なんだと思う)

ベルばらは、難しすぎたんじゃないかな。戦争体験のようなモチベーションがないし、いろんな人がいて、いろんな立場の苦悩があって、複雑じゃん。あんなの無理無理。大見得切って、パターン通りに感動させるには、どうしても言いたいテーマ(しかも誰にでも賛同してもらえるもの)と、単純で誰にでも一目でわかるストーリーと、一人だけの主人公と、とにかくシンプルな題材でなきゃダメだったんだよ。なるほどね〜。

そういえば、シャングリラもただの「記号」なんだよなー。でも「萌え」はあるね。
・シャングリラは萌えはあるけど見得はない。
・ソルフェリーノは見得はあるけど萌えはない。
どっちも全然深くない。どっちが楽しいかと聞かれたら…うーん(笑)

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ショーはまたあとで
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緒月遠麻お茶会(4/4) [お茶会報告]

白衣に眼鏡でお医者さんコスプレ〜! そして肩には鳥が! 舞台で使っている実物だそうです。

・白衣はそらちのお稽古用、眼鏡は笹川宗光のもの。
・髪型はさおうくらまさんが、○○はさぎりせいなさんがやってくれました。言えってうるさいんだもん。
・(司会:同期の方は何してらしたんですか?)同期? 同期はねー、横で「やってるやってる」みたいな…、ぬるい感じで見守ってました。はい。

・ハンデルの設定は、兄弟がたくさんいる人。
・それ以外はわかんない。なんでそんなにしつこく聞くんですか。○○さん(司会)が知りたいだけだと思います(ビシ)。→司会:ファンのみなさんが知りたいんです(ビシ)。(このやりとりがたまらん…)
・今までいろんな役をやってきたけど、かなり好きな役。入り込んでしまう。前世は兵隊だったと思う。絶対そう。
・ポポリーノはまだ少年なんですよ。その設定だけで泣けるんですよねー。
・ポポリーノの靴がね、ほかの兵隊と違って、子ども用の編み上げなんです。それに舞台上で気付いたときに、もう泣けて泣けて、興奮して袖に入ってからほかの人に「編み上げなんだよ!」って言ったら、「知ってます」とか言われちゃった。
・新公のポポリーノ、知ってます? ハーモニカ持って担がれてくんですよーー。
(よっぽどポポリーノが好きらしい)

ジェンヌさんの中では、突き抜けたキャラというか、面白いキャラのキタロウくんだけど、やっぱり、やっぱりジェンヌさんなんだなあぁぁ、と思う瞬間でした。あの植田芝居に、そこまで入り込めるって、やっぱりジェンヌさんならではの憑依体質ですよ。

・ショーの役は、カーニバルの実行委員。普段はふつーの人。
・肩についてる鳥はあんなさんとセットで、自分たちで先生に提案した。
・名前? セバスチャン…、あれ? あんなさんのほうがセバスチャンだったかな? あれ? (結局もう一羽の名前はわからないらしい)
・初代は大劇場の千秋楽直後にばらばらっと壊れてしまって。今のは2代目。
・飾りとかは全部あんなさんがやってくれて。こまごまと。
・今日はお茶会だからカップがついてるんです(オペラグラスで見ても全然わからなくて、写真撮影のときにガン見したら、小さなシールだった…)自己満の世界ですよねー(ほんと、そう思います・笑)。季節ネタでいろいろつけたいので、次はランドセルかなーとか。この鳥が背負えるランドセルなんてありますかねー。ほんと自己満ですよねー(←何度も言う)
・鳥が途中いないのは、そのときだけどっかに飛んで行ってるって設定です。また戻ってくるんです。(司会さん:単に、取れちゃったのかと思ってました)ちーがうよー。(←キタロウくん特有の叫び)
・ヒロミさんと小芝居してるのは、ヒロミさんは詩人なんで、その詩を読んで「才能ないねー」とか言ってるんです。今日は、足もんでもらった。
・偉そうだけど神経質な人。だから、ハンカチをさゆちゃんに貸してあげない。貸してあげても、汚れちゃったかも!? って見てる。やな人ですね。

・3人(キタチギコマ)で相手役さん(キタロウくんならあんなさん)にホワイトデーのお返しをするために、相手役さんの衣装を借りてこっそり写真とって、借りてる時点でバレバレなんですけど、その写真を綿棒の入れ物に入れて、上にシャチホコつけて、あげました。シャチホコ、小さいのあるでしょ? (司会:普通、家にはシャチホコなんてありません)えー、名古屋では、一家に3つぐらいシャチホコありますよー(名古屋人らしきファンが「ないない」と首をふる)あるってー、もー、恥ずかしがっちゃって。

その衣装取り換えっこ写真って、どんなだったんだろう…今書きながら、想像してしまった…

・フレパの話。「ててて…ピカっ」っていうのが難しい! 簡単そうに思えるでしょ? 難しいらしいんですよー。(すごい力説)
・カメラマンさんに、自分そっくりな人がいた。世界に3人いるうちの一人だと思う。「あ、どーもー」とか挨拶しちゃった。(必死に探したけど、そのカメラマンさん映ってなかったですねぇ)

・ゲームは、ショーのテーマが仮面舞踏会ということで、キタロウくんが目隠しをして触ったものを当てられるか、をファンが当てるというクイズ。たわし、桜、まるちゃん人形、公演プログラム、エリンギ… かなり難しいと思うんですが、キタロウくんはすべて正解。棒立ちになってサワサワっとしてる図がすごく変(笑)。
・それなのに、おうきかなめさんが味の違いがわかるという、ダイエットコーラと普通のコーラの飲み比べ。キタロウくんはまるっっきり逆を答えてました。しかも、あんまり残念そうじゃなくって、てへへー、ほらねー、みたいな感じ。

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虞美人が虞美人たる所以 [観劇メモ]

サブタイトルの「新たなる伝説」、たしかにそうだな、と。

こんな項羽、知らない。こんな劉邦、見たことない。予想もしなかった項羽と劉邦。

だって、項羽がタカラヅカ的スーパーヒーローなんだもん! アホで怪力で、残虐な、鬼神なはずの項羽が、包容力たっぷりの、正義の人になってるんだもん! 何これ、何これ、何これ。項羽が死ぬラスト、「授けたいものがある」って、すごいオーラ。包み込まれてしまう。総髪が素敵だし、死ぬ動作もいい。真飛さんのあの包容力って何なのよ。思わず涙が…キムシンなのに涙が…

項羽は真の武人なのに王になれない、その悲劇。

劉邦は自分で意図していないのに王になってしまう、その悲劇。

だから、この話は劉邦が語る形になってるんだ。自分よりも王にふさわしかった人物として、勝ち残った劉邦が、負けた項羽を讃えることで、項羽が真のヒーローになる。

劉邦が「自分は誰も愛してないのに、みんなが寄ってくる」って歌うのがまたいい。司馬版でも書かれていたイメージだけど、項羽がスーパーヒーローになったことで、より際立った。項羽は虞美人や臣下を愛しているのに王になれない、なのに、劉邦は誰も愛していないのに王になっちゃう。空しい。

そんな二人を操るのが、范増と張良の戦い。范増と張良を旧知の仲ってことにして関係性を強めた。二人の別れの場面が悲痛。劉邦が項羽を追い落としてしまって後悔するように、張良も范増を殺すことになってしまって後悔する。対になってる。

(結果的に、張良がすげー悪い人になってるのには笑えた。当時としては誰もが騙し合ってるんだけど、項羽をスーパーヒーローで正義の人にしなくちゃいけないので、懐王を殺したのも張良の策略、はんぞうを追い出したのも項羽は悪くないし、和睦も項羽が言いだした、等々、悪いことは全部張良におしつけられてる)

同じように項羽と劉邦の対を象徴しているのが、虞美人と呂。

こんな虞美人、知らない。見たことない。予想もしなかった虞美人だ。

だって、虞美人がタカラヅカ的ヒロインなんだもん! 男のそばにいるペットのような女だったはずの虞美人が、清らかで崇高な存在になってるんだもん! タカラヅカ的世界の中で、女性がペットだったことが昇華されて、「ヒロイン」になってた。いつも項羽のそばにいて、ただ美しく、ただ愛し、ただ愛される。ほかになんにもない。

一方で呂は愛されないし、そもそも劉邦を愛していない。野心を実現させても、幸せじゃない。劉邦が王になっても全然うれしくないように。虞美人は愛だけで生きている。野心などない。だから愛のためにいつでも死ねる。それで幸せ。牢獄の場面(原作にはない、キムシンがあえて作った場面)で、虞美人が呂に語る内容が、二人の対比を物語っている。

虞美人は、項羽の心の向かう先なんだろう。項羽の心の美しさをあらわすものなんだろう。タカラヅカ的ヒーローの美しい心を抜き出したら、清く正しく美しくの虞美人になった。虞美人は、そんな抽象的な存在なのではないかなあ。

だから、虞美人がタイトルロールなのだ。タカラヅカ的「愛」そのものなんだ、虞美人は。『鳳凰伝』『王家に捧ぐ歌』に続いて、キムシン愛の三部作(キモ)、なんですよ、きっと。

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