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魔都夜曲(シアターコクーン 7/7 19:00) [観劇メモ(ヅカ以外)]

宝塚だったら、かなりよくできた部類だよなあ、
と思いながら観ていました。

音楽劇、ということで、
ミュージカルではなく、
酒場のショーナンバーとか、必然性のあるところで音楽が入る。
その入り方が上手い。曲もいい。

主人公はピュアで包容力のある、
いわゆる「真っ白」な御曹司。
二番手は、純朴な友人のふりをして、
じつは悪い人…!?
ヒロインは、ものすごい美貌で、やや勝気だがじつは…

老若男女、いろんな役があって、いろんなラブがあって、
それぞれにドラマや背景がある。

歌ウマさんには要所要所でババーンとソロあり。

宝塚の座付作家も、これぐらいの仕事してほしいわあああ~

と、ヅカファンみんなが思ったに違いない。

とはいえ、それほどのめりこまなかったのは、なぜだろう?

主人公が御曹司すぎて、いまいち感情移入できなかったからかな。
二番手とヒロインも、日本やヨーロッパの国に支配されている中国の人だから、
「わかるわかる!」とはなかなか言えない。

同じマキノノゾミ脚本で河原雅彦演出の『黒いハンカチーフ』は、
(映像でしか見てないんですが)
貧乏な詐欺師たちが、パンパンが殺された敵をうつために、
あくどい政治家をだましまくるという話だったから、
感情移入しやすかったのよね。

どんでん返しがあるのは『黒いハンカチーフ』と同じで、
さすが、カタルシスが得られました。

脚本演出の名前のほか、壮さんが川島芳子というのも、チケットとった理由の一つ。
壮さんの、あの不遜で失礼な感じ(笑)がいかされてた。
で、ちょっと孤独、という。

村井国夫さんと春風ひとみさんの超豪華デュエットがうれしかったなあ。
春風さんはメインの役は中国人のメイドで、笑いをとっていた。
(後ろの席の人が中国語がわかるらしく、
中国語のセリフで笑っててうらやましい)

歌姫役が四季出身、中国出身の人で、
なんかぬめっとした迫力があって上手かった。

相棒の角田課長が、この歌姫のパトロンと、甘粕正彦の二役。
眼鏡かけてないとわからなかった(笑)。

李香蘭役がほんわかかわいいアイドルで、
かわいいけど、李香蘭じゃないだろう、と。

パンフの写真が、地元のホテルで撮られてて、
おおっ、と思いました。



「個人」より「場」 [ヅカってなんだ?的記事]

コラムニスト小田嶋隆のツイートによると、彼は、
「マスコミから仕事をもらっているのに、
マスコミを批判するなんて、おかしい」
と言われるそうだ。

文筆家がマスコミという大きな大きな仕組みに属することは
そうそう変えられない。
一方で、大きな大きな仕組みに何も問題がないなんて有り得ない。
だから、マスコミから仕事をもらいつつ、批判する、
なんて当たり前のことじゃないか。

これを敷衍していったら、
日本に住んでいるのに、
日本の○○を批判してはいけない、
になってしまう。


あ、、、
そういう考えって、、、
と思い当った。


東小雪さんが、何年か前、新聞記事になったときに、
ネットで、
「宝塚出身でそのことをウリにしているのに、
宝塚を批判するのはおかしい」
と叩かれていた。
(これとか→https://togetter.com/li/930919

例のいじめ裁判のときもそうで、
自分が所属している(いた)組織を批判すること自体がおかしい、
という考え方をする人がけっこういた。

虐待されている子どもに向かって、
「産んでくれた親に感謝しろ」って言ってるみたいだと思った。



所属している組織(場)が、
(表面的には)なにごともなく続いていくことが大事で、
その組織が、本来どうあるべきか、
建前として、理想として、社会はどうあるべきか、
ということは考えない。

「空気を読む」という言葉がまさに言い当てているように、
「場の空気」、実体のない「世間様」に従うことが何より大事。

音楽学校は、司法判断よりも宝塚のほうがえらい、って言いきっていた。



私はずっと、いじめ裁判について、
「善悪の区別もついてないなんて、おかしい」
http://pt-omoitsuki.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301186891-3
と怒ってきたけど、
場の空気を優先する人にとっては、
場の空気を壊すことこそが悪なんだ、
そうか、
そうなんだ。



森友学園、加計学園の問題で、
役人が、政権の不利になる公文書をマスコミに提供することを、
批判する人たちもいる。

日本に住んでいるんだから、
日本の政権を批判するな。
(住んでいることと、政権とは、全然イコールではないのに)

役所に勤めているんだから、
役所の不利になることはするな。
(役所という組織と、勤めている個人は、別物なのに)


批判する人たちが従っているのは、
「場が壊れることはしてはいけない」という考え方。
「場」とそこにいる人間はイコール。

内部告発者が従っているのは、
「本来、社会はどうあるべきか」という考え方。
「場」とか「家族」とかよりもっと大きなところに基準があって、
それとは別に「組織」があって、さらに別に「個人」がある。



私は、宝塚を好きになったとき、
「夢」をしきりに謳っているから、
「夢」=「みんなが幸せになれる」
→一人一人が「個人」として幸せになれることだと思っていたの。

でも、ちょっと考えれば、
団体責任とか、年功序列とか、
個人尊重じゃないことはすぐわかる。


「夢」=「みんなが幸せになれる」
→誰かが犠牲になっても、場の空気を壊さない、
つまり、場としての「みんな」が幸せになる、

だったんですね~~。



宝塚の人や芸が好きすぎて、
仕組みの本質から目を背けていたんだなあ。。。


最近の社会のあり方を見ていると、
7年前のいじめ裁判で問題だと感じたことが、
社会全体からじわじわとにじみ出ているように思う、
今日この頃です。


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