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虞美人が虞美人たる所以 [観劇メモ]

サブタイトルの「新たなる伝説」、たしかにそうだな、と。

こんな項羽、知らない。こんな劉邦、見たことない。予想もしなかった項羽と劉邦。

だって、項羽がタカラヅカ的スーパーヒーローなんだもん! アホで怪力で、残虐な、鬼神なはずの項羽が、包容力たっぷりの、正義の人になってるんだもん! 何これ、何これ、何これ。項羽が死ぬラスト、「授けたいものがある」って、すごいオーラ。包み込まれてしまう。総髪が素敵だし、死ぬ動作もいい。真飛さんのあの包容力って何なのよ。思わず涙が…キムシンなのに涙が…

項羽は真の武人なのに王になれない、その悲劇。

劉邦は自分で意図していないのに王になってしまう、その悲劇。

だから、この話は劉邦が語る形になってるんだ。自分よりも王にふさわしかった人物として、勝ち残った劉邦が、負けた項羽を讃えることで、項羽が真のヒーローになる。

劉邦が「自分は誰も愛してないのに、みんなが寄ってくる」って歌うのがまたいい。司馬版でも書かれていたイメージだけど、項羽がスーパーヒーローになったことで、より際立った。項羽は虞美人や臣下を愛しているのに王になれない、なのに、劉邦は誰も愛していないのに王になっちゃう。空しい。

そんな二人を操るのが、范増と張良の戦い。范増と張良を旧知の仲ってことにして関係性を強めた。二人の別れの場面が悲痛。劉邦が項羽を追い落としてしまって後悔するように、張良も范増を殺すことになってしまって後悔する。対になってる。

(結果的に、張良がすげー悪い人になってるのには笑えた。当時としては誰もが騙し合ってるんだけど、項羽をスーパーヒーローで正義の人にしなくちゃいけないので、懐王を殺したのも張良の策略、はんぞうを追い出したのも項羽は悪くないし、和睦も項羽が言いだした、等々、悪いことは全部張良におしつけられてる)

同じように項羽と劉邦の対を象徴しているのが、虞美人と呂。

こんな虞美人、知らない。見たことない。予想もしなかった虞美人だ。

だって、虞美人がタカラヅカ的ヒロインなんだもん! 男のそばにいるペットのような女だったはずの虞美人が、清らかで崇高な存在になってるんだもん! タカラヅカ的世界の中で、女性がペットだったことが昇華されて、「ヒロイン」になってた。いつも項羽のそばにいて、ただ美しく、ただ愛し、ただ愛される。ほかになんにもない。

一方で呂は愛されないし、そもそも劉邦を愛していない。野心を実現させても、幸せじゃない。劉邦が王になっても全然うれしくないように。虞美人は愛だけで生きている。野心などない。だから愛のためにいつでも死ねる。それで幸せ。牢獄の場面(原作にはない、キムシンがあえて作った場面)で、虞美人が呂に語る内容が、二人の対比を物語っている。

虞美人は、項羽の心の向かう先なんだろう。項羽の心の美しさをあらわすものなんだろう。タカラヅカ的ヒーローの美しい心を抜き出したら、清く正しく美しくの虞美人になった。虞美人は、そんな抽象的な存在なのではないかなあ。

だから、虞美人がタイトルロールなのだ。タカラヅカ的「愛」そのものなんだ、虞美人は。『鳳凰伝』『王家に捧ぐ歌』に続いて、キムシン愛の三部作(キモ)、なんですよ、きっと。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::


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