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タカラヅカはタカラヅカという世界を楽しむもの [ヅカってなんだ?的記事]

外部のロミジュリは、タカラヅカのロミジュリより退屈しなかった。じつは。

でも、一方で、まっったく陶酔できなかった。

これは一体どういうことなのか。

ロミジュリは元から、歌手が歌いあげることが主眼の作品だから、かな(ミュージカルの大半はそうだという気がするが)。もちろん、役柄に合っているかどうかとか、演技力があるかどうかも大事だけど、それ以上に、一曲一曲を歌い上げればOK。ストーリーは誰もが知ってるから、そんなに説明する必要ないし。外部は歌ウマさんばかりだし。

一方、タカラヅカだと。歌ウマさんばかりじゃないから手に汗握る。それに、一曲一曲が終わったところで、ブツ切れに感じてしまう。途切れた、という感じがしてしまう。同じ作品なのに。

ということは。

タカラヅカは一つの閉ざされた架空の「世界」だということです。歌ごとに途切れてほしくない。歌と芝居の継ぎ目が目立ってほしくない。流れるように一つの世界を綴ってほしい。現実が入りこむ余地を一切なくしてほしい。

そして、「世界」の中では、多くの登場人物が生き生きと存在していてほしい。別の角度から見れば、それぞれの物語が作れるぐらいにキャラクター付がされていてほしい。タカラヅカの下級生はアンサンブルでもなんでもない。一人一人が大切な生徒。

なのに海外ミュージカル全般では、アンサンブルはアンサンブルでしょ。メインキャストとは明確に線がひかれている。そんなんじゃ、「世界」じゃない。

そのうえ、外部は当然のごとく多くの役がダブルキャスト。だから、どんなに仲良さそうにしていても、この舞台にいる人たち以外にもこの役の人がいるんだ、と思うと、物語にのめり込めない。ほかの作品ならともかく、ロミオとジュリエットで、4パターンのロミオとジュリエットがいるなんて、それはちょっと恋物語に陶酔できないなあ。恋とは、その一瞬、唯一の相手に燃え上がることでしょう。

タカラヅカではキャストは固定。モンタギューの三人も、キタチギの社交ダンス(ケンカのシーンのことを彼らはそう呼んでいた)も、この人たちだけのもの。恋物語にも、ダブルキャストでない期間のみだけど、ものすごーーく陶酔できた。(メモカ休演で一気に陶酔できるようになった私→この記事)。

だから、外部のロミジュリは、途切れたからといって退屈はしないけど、恋物語や友情に陶酔できない。タカラヅカのロミジュリは、途切れて退屈するけど、恋物語や友情に陶酔はできる。

タカラヅカとは、現実とはパラレルに存在する、全く別個の完成された世界。作品ではなく、世界を観るものなんだな。

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ヅカファンである悦び [ヅカってなんだ?的記事]

(ちょっと追記しました)

ヅカファンである悦びって、なんだろう。


頭をからっぽにして、きらびやかなもので心も体も満たされる、リフレッシュ感。

素晴らしいパフォーマンスを目の当たりにする有り難み。

男役芸やラブシーンにドキドキする高揚感。

スターさんが劇場いっぱいに満たすオーラに浸っているときの、椅子から浮き上がりそうな幸福感。

過酷な状況の中で健気に努力する生徒さんへの、心からの尊敬。

大好きな生徒さんと目が合ったり、お手紙を渡せたり、会話が成立したりしたときの、天にも昇る気持ち。

舞台上から客席に投げかけられるパワーと、客席から舞台に返す熱気とが、循環している、愛の挨拶のライブ感。

退団の発表を悲しみながらも、千秋楽までにはファンの人たちが両思い感に満たされている、あの不思議な切なさ。

素晴らしい作品に出会って、公演している劇場がその作品の世界そのものであるかのように錯覚するほどの陶酔感。

駄作でもなんとか面白みをみつけようと友人たちがネタにしているのを面白がって聞いているときの小気味良さ。

スターさんをキャラクター化して楽しんだり、ちょっとした悪口や噂をひそひそと話してたのにすぐ忘れてしまったりといった、変な内輪受け感。

次はどんな作品が、どんなスターが登場するんだろう、と感じているワクワク感。

劇場の中も外も、見知らぬファンのみならず、劇場スタッフや演出家や関係者の全てが、自分の家族であるような一体感。

自分がそんな素晴らしい夢の世界の一員であり、心のふるさとを持っているという、誇りと安心感。

それに恥じないよう、自分も頑張ろうと思うときの充実感。


…そんなものが、今あるだろーか(涙)。部分的にはあるけど…

でも、本当はまだあると信じたい。ただ雲に隠れて見えないだけで。

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後天的ゆえに [ヅカってなんだ?的記事]

96期生が研2にしてはたくさん使われてきている。ちゃんと謝って、研2は研2らしく、実力に見合った位置にいるなら、そんなにむっとしないのに。なんであえて上げてくるかなー。

きっと、謝れないから、なんだろう。謝るなんて選択肢がなくて、隠蔽しなくちゃいけないから、わざとらしく上げてくるんだろう。

ひょっとしたら96期生の中には、心から反省して原告さんに謝りたいと思っている人もいるかもしれない。もし過ちを認めてやり直すなら、私は甘い人間だから、全然許す。(出汁とその取り巻きのぞく)

でも、タカラヅカの仕組みでは「おおやけに謝る」なんて選択肢は無い。真実を究明しようとか、悪いところを改めようという姿勢を見せるとか、そういう発想が無いのがタカラヅカの風土。

「清く正しく美しく」という美徳は、「過ちを認めてやり直そう」(@「記者と皇帝」)ではなく、「過ちはひたすら隠そう」に転じてしまう。それじゃあ、真の美徳ではないと思う。

タカラヅカっていう世界は、自分にはまったく合わない世界なんだなあ。

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宝塚イズム16号、震災についての記事を書かせていただきました。ごくごく当たり前のことばかりですが、記録としては重要かも、と思い。本屋さんで手にとってみていただけたらうれしいです。

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勝手に「こだわりアラカルト」キスシーン編 (1) [ヅカってなんだ?的記事]

ふと思った。

・蓮城まこと大先生は、上級生のキスシーンの稽古をつけるほど、キスシーンがお上手なんだろうか。

・緒月さんはこれまでキスシーンを演じたことがあるのだろうか。

・どうして音月さんはあんなにキスシーンが下手なんだろうか。新人公演やバウ主演でやったことないんだろうか。ないわけないだろー。

そんな疑問を解決すべく、HDやDVDのチェックを始めた。

でもねー、主役に近いところじゃないと、ラブシーン自体ないのよね。(ちなみにふみかちゃんは、せいぜい『蒼いくちづけ』できらりちゃんに言葉で迫ってるぐらいで、キスシーンもラブシーンも無いT T)

キタロウくんのは今のところ、『青い鳥をさがして』の新人公演のほっぺにチューしか発見できず。(でもこれ、かわいいよねー。)

キングのは『ロシアンブルー』の新人公演で発見!(なぜかHDに未見で残ってた) んー、キングも悪くないけど…、角度がおかしかったりしないし、でも、むしろあゆっちの口半開きがイイね。

おっ、『ロシアンブルー』は本公演も映像がありますよ。水さんのキスシーンは、どれどれ…。おおおっ、キングと逆に回ってる!!! (っつーか、キングが逆にやってる)

水さん→銀橋で見つめ合って、客席側の手はみなこの後頭部、横顔のまま近づく…1.5cmまで近づいたところで、反時計回りにくるり、客席からはみなこの背中が見える。

キング→銀橋で見つめ合って、客席側の手はあゆっちの首筋、近づく前に時計回りにくるり、客席からはキングの背中が見える。

本役さんは至近距離まで近づいてるのが、さすがだわ。手を添えるのも、隠すのに使っちゃあ邪道。

水さんと言えば、『霧のミラノ』のいづるんとのボックス席の場面でしょ〜〜。あれは大好きだった〜〜。どれどれ。顔近付けて……、うわあああ、手なんか添えてもいません! どう見ても本当にチューしてるように見える!! は〜、これぐらいやっていただきたいものです。うっとり。

手の位置も大事よねー。上級者は隠すのに使わないんだから、ほかの効果的な方法に使えるわけで。後頭部抱きは真飛さんがお得意だったし(真飛さんは口半開きがまたイイし)。『カサブランカ』のユウヒの、右手ですみ花をひっぱるアレ! アレはすごいよね〜〜。しかもかなり至近距離! 絶品ですな。

つくづく、キスシーンって、「型」なのだなあ。立ち回りみたいなもので、「型」以外の何ものでもない。でも、それをいかに「型」に見せないかが、大事なんだなあ。ふーむ。柴田先生の「1.5cm」は名言だと思う。夢の世界でのリアリティ。

こんなふうにキスシーンの「形」にこだわってる演劇なんて、あるだろうか。普通、ほんとにキスしちゃうでしょう。それに、こんなにキスシーンを特別視しないでしょう。時代劇に立ち回りが必須なように、タカラヅカにはキスシーンが必須、なのかもしれないなあ。

そのルーツは戦前のハリウッド映画なんだろうか。しかし、その頃のタカラヅカは「恋」って単語だけで拒否反応示すファンもいたぐらいだから、キスシーンは無いよなあ。タカラヅカ初のキスシーンってどれなんだろう。

というルーツ探しもともかく、おすすめキスシーンを今後も勝手に探していきます。

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ニジンスキーのすみれコード違反について [ヅカってなんだ?的記事]

バウ公演ニジンスキー、全体的な感想はあとで書くとして、まずは問題の…。

男同士の肉体関係をここまではっきり描いたのって、芝居では初めてだと思う。ショーで男役同士でチューするのは最近はよくあるけど、芝居で男役同士のチューをここまではっきりやったのは初めてなのでは? ショーなら一瞬だし、深く考えないけど、芝居だと二人の関係性とか、これまでのこととか思い起こさせてしまって、めちゃくちゃ生々しい。同棲してたんだ〜、同棲ね…うわーっ。

そういえば『studio54』でも、パトロン(越リュウ)がスター(みりお)の首筋にチューしてたな。保護者と被保護者という立場は今回と同じだ。でも首筋にチューなら、それだけかもねって選択肢が残ってるけど、今回はほんとのチュー。ディアギレフがニジンスキーにチューして、そのうえネクタイはずしまである。これはみんながザワザワするのも無理はない。

あともう一つは、「牧神の午後」の振りで、一人Hがはっきりわかる振付けになってたこと。

この2点が、作品の出来云々よりも目立ってしまう、いわゆる「すみれコード」を逸脱している点だと思う。

だけど、じつは私はこれらはそれほど気にならない。(特に2点目は史実通りにするしかない。)

むしろ、違うところが気になる。

それは、肉体関係を拒否するところ。キスシーンのあと、ネクタイはずしがあって、するとニジンスキーがディアギレフに「今日は疲れてるので、ちょっと…」って言うの。いやー、それは生々しすぎるでしょ。生活臭が出ちゃってるでしょ。キスシーン→ネクタイはずし→と来たら、暗転でしょ、タカラヅカ的には。そういえば『睡れる月』でも、やっぱり保護者(ヒロさん)と被保護者(かしげ)で、チューではないにせよ、そういう場面があった。けど、あれも暗転で終わってたはず。オトメにとって、キスより先のことはあいまいなまま、幻想的なままであってほしいのです。疲れてるから断るとかそういう生活臭は興ざめなんです。(これは男女の場面でも同じかも)

そして、一番、あ〜あと思ってしまったのが、最後の『ヴェニスに死す』のエピソード。ディアギレフは、気に入った男の子には『ヴェニスに死す』の本を渡すのだそうだ。『ヴェニスに死す』というと(私は映画しか知らないのですが)、年老いた男が美少年を追いかけ回す話でしょう。そこに文学的に深い意味があることはわかる。でも、タカラヅカの舞台で想起させないでほしかった。(気に入った男の子には『ヴェニスに死す』の本を渡すというのは、キタロウくんのお茶会で聞いたので、史実だと思ったんだけど、本当のところ、どうなんでしょう?)

なぜなら、我々ファンとジェンヌさんの関係みたいだから。いい年した女性たちが、自分よりずっと若くてきれいな女性に群がっている様子を、なんとか麗しい言葉で魔法をかけて成り立たせている世界なのに、魔法を解いてしまうような連想をさせないでほしかった。

原田諒はきっと、すごく真面目で、史実通りできるところは史実通りにしたかったんじゃないか。その真面目さで、ヅカファン(っていうか私一人かもしれないけど)のびみょーな心理を理解できないんじゃないか。という気がする。。。ヒロインをヒロインらしく変えればいい、というだけじゃないんだよ〜。

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ところで、ロモラが晩年追っかけしてたタカラヅカのスターって、誰なんだろう??
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宝塚ファンの社会学 / 宮本直美 [ヅカってなんだ?的記事]

こんな時ですが、出るのを楽しみにしていたし、イズムの青弓社の本なので、早速読みました。

「あそこで並んでいる(注:出待ちのこと)ファンたちはみな、宝塚スターへの行き過ぎたクレイジーな思いからあんな奇妙な行動をとっているのだろうか。それは説明として粗すぎる。」(p9)

なるほど、今までのタカラヅカ研究ではほとんど言及されていないファンクラブ活動、言及されていても「もどき劇団」と混同されてたりしていた(『踊る帝国主義』ジェニファー・ロバートソン)ファンクラブ。その仕組みを、ただのファン意識ではなく、組織の在り方として解き明かそうという本です。

結果として、現時点(厳密には1990代〜2008年だそうですが、現時点も変わっていないと思われる)での、ファンクラブの「暗黙の了解」が、ほぼ全て網羅されています。

こういう本はとても貴重です。10年後、20年後にものすごーーーく貴重な資料になると思います。非公式の活動って全然、紙に残らない。そのうえヅカファンは「今を生きる」人たちばかりだから、自分が経験したことを歴史として語らない。残さない。とてももったいない。今こうして紙に残ることはとてもとても貴重です。

また、これからファンクラブに入る、最近入ったという人は、これを読んでおけば「なるほど、こういうことがあるのね」「こういう力関係で動いているのね」と心構えができて、とても良いと思われます。

ただ、どうしてこのような組織の在り方になっているか、については切り込めなかったようです。「より踏み込んだ社会学的関心の断片は、むしろ注のなかで示唆するにとどめた。今後は個別の問題を分析していければと考えている。」(p190)とのこと。ファンクラブの在り方は宮廷生活の構造に似ている、という指摘が面白いので、今後に期待しています。(私が出待ちしながら「これって平安時代の宮中」って思ったのもちょっとつながる〜? ←何様)

また、冒頭(p18)では新専科制度が競争を激化させ、ファンクラブの在り方も変わった、とあって、「え、ポイント制って新専科からとか、そういうことがあるのお〜?」とわくわくして思って読み進めたのに、それについて本文中で触れていないのも残念。(ポイント制は1990年代からあった模様)

最後に面白い指摘が。最近チケット難じゃないので、ファンクラブの在り方も変わるかもしれない、と(p185)。なるほどねー。

未来についての予測は、今の分析と、過去の分析があってこそ。今についてはこの本で詳述されたので、過去がどうだったのかもすごーーく知りたいです。高声低声には断片しかないので難しいとは思うけれども、聞き書きとかするしかないのかなあ。

あ、あと面白かったのが、注にちょろっと書いてあった、娘役を重視しないファンの傾向は、新たに「女性」を生み出して排除する現実の男性社会を模しているだけだ、という指摘(p17)。これまでの、男性社会からの逸脱であるという見方と逆だ。

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タカラヅカは舞台がすべて、じゃ全然ない [ヅカってなんだ?的記事]

ムラの最初のほうに観て以来のロミジュリ観劇。

チギの歌がマシになってた! 銀橋で手に汗握らなくなった!
コマの歌がマシになってた! 出た涙が引っ込むタイミングが、後ろにずれた!

そんな低レベルな、と言うなかれ。成長を見守るのがタカラヅカなんだよ〜。

にわにわがお茶会で「マントヴァ=逆瀬川」って言ってたので(詳細は後日アップするお茶会報告にて)、マントヴァの場面はすべて「あー、逆瀬川ってこんななのねー」と思いながら見てた。

んなわけないやろ、と言うなかれ。出演者が楽しんでいる様子がわかって、一緒になって楽しむのがタカラヅカなんだよ〜。

ジュリエットに感情移入した。ああ、私、ロミオに愛されてる! って思った。ムラで観たときはキムの演技を、ジュリエットのこと好きじゃない? ウソくさい? って思ったんだけど、今回は全く思わなかった。ヒロインが一人って、やっぱいいよね!

思い込みと言うなかれ。ジュリエットのダブルキャストが休演したからって、それだけで演技が変わるわけない。一回一回の公演ではジュリエットはいつだって一人なんだから。でも、そういう背景も含めて観るのがタカラヅカなんだよ〜。

唯一無二の存在としてトップ男役に愛される、それこそがトップ娘役のレゾンデートル!

と思いたいヅカファン魂!

つくづくタカラヅカって、一回一回の目の前の公演を鑑賞するだけじゃ、ないんだよなあ、と思う。「タカラヅカは観るもんじゃない、参加するものだ」というのは私が勝手に作った標語なのですが、その「参加」とは、背景を知り、イベントに参加し、複数回観たり、長年観つづけたり、勝手に妄想ふくらませたりして、、、という行動全体なんです。

だからこそ、イメージを大切にしてほしいんだよね。。。

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歌劇を読むシリーズの経過報告と余談 [ヅカってなんだ?的記事]

『歌劇』を最初から全部読む! の目標。とりあえず戦前分をコンプリートしました。戦後分も頑張りつつ、得たネタを徐々にアップしていきたいです。

たとえば。初のコンビ萌えは誰と誰!? よっちゃん(春日野八千代様)はオフは「坊や」みたいなんだって! などなど。興味ある人いるんかな〜、いないだろうな〜。

パリゼット(昭和5年)〜東宝開場(昭和9年)のめまぐるしさは本当に面白かったです。一ヶ月ごとに価値観が変わる。男役と女役の区別が明確になったのもこの頃だし、つけまつげが普及しだすのもこの頃。『歌劇』の体裁も今に近くなってくる。

昭和12年に日中事変が起きてから、少しづつ少しづつ戦時色が濃くなっていくのも、興味深い。一律に戦時体制になったわけじゃなく、ちょっとづつ、ちょっとづつ時勢は変わっていくものなのだなあ。怖い怖い。

その関連で、前に読んだ『タカラジェンヌの太平洋戦争』(玉岡かおる)を読み返してみました。

戦後すぐの寄宿舎で盗難があった話。「貧しい時代だから、時折盗難もあってね。でも、盗んだ相手をみつけても、責めることなんかできないですよ。」(OGの回想 p156)…ハンガー一つで盗難届けを出した人を思い出します…

戦中の慰問公演の話。「トラックに揺られながら彼女が考えることは、この移動公演で一日に二回ずつ踊ってきた「娘道成寺」の、自分の振りのできばえのみだった。(略)春日野八千代が一つ一つ手をとって稽古をつけてくれたのだった。(略)何度やっても春日野八千代からダメを出され、最後にはぽろぽろ涙をこぼす。それでも彼女は弱音を吐かず、時を惜しむように稽古に熱中した。彼女たちが、たとえ舞台すらない町のはずれの広場で演じる場合であっても、妥協ということをしなかった証拠である。」(p194-195)…周りと振りが全然合ってないのに、顔だけキザってる人を思い出します…

満州での公演は零下40度だったんだって。ひぇぇぇ。

…許さへん! うちは絶対に××や××××を許さへん!(なぜか関西弁)2chに「北原遥子さんに謝れ」とかいう変なタイトルのスレッドがあるけど、本当に「先輩たちに謝れ!」と思う。

こういう先人たちのことを考えたら、伝統を汚すことはできんでしょう。昔の資料を読めば読むほど、私はそう思うんですが。たとえ汚すようなことをする生徒がいても、先生が「これを読め!」って言うものじゃないの? タカラヅカを愛してたらそうするもんじゃないの? そういう先生はおらへんの? 

…愛してないのだった、彼ら。愛してたら、こんなことにはならないのだった。

後生大事に先人の記録を読んで涙している私は、きっと彼らからしたら、ただのバカなんでしょうね。

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注:そもそも音楽学校には「先生」は存在しないのでした(事務職員と講師だけ)


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コードヒーロー終わってみて、タカラヅカ的美徳について思う [ヅカってなんだ?的記事]

仕事が忙しくて、東西あわせてたったの3回しか観ることができませんでした。もうちょっと回数を観たら、突き抜けてすべてが面白く思えたのでしょうか…??

楽の挨拶で、まあくんが泣いてたそうだ。そりゃそうだよね。こんなひどい作品で、しかも自分に合ってる役でもないし、不況もあるだろうしでチケット売れないし。でも最後まで主演として立派に責任を果たした。あの「なんでここでいきなり歌になる!?」的な、客席が笑っちゃうような場面も、笑うことなくマジメに演じ切った。変な歌詞も変な台詞も、すべて渾身で演じ切った。当たり前のことなんだけど、当たり前のことが大変な公演だったと思う。まあくん以外のみなさんも頑張っていた。そしてファンクラブも、それにこたえようと、いっぱい拍手してた。いっぱい笑ってた。盛り上げようとしてた。東京でさらにそれを感じた。

こういう現場にちょっとでも居合わせると、「あー、タカラヅカってうるわしいなあ」って思う。健気だもん。みんな健気に頑張ってるもん。より良くしようと、日々努力してるもん。ヅカファンとして、この健気さを支えてるんだわ、私! と「宝塚心のふるさと教」の(元)信者として泣きそうになる。

でも、そういう美徳が、危険と紙一重なんだよね。。。。

だって、誰も公式には「駄作」だとは言わない。「パワーのいる作品ですよね」と言い換える。「チケット売れてない」とは言わない。「是非またいらしてください」と言い換える。誰もが思っていることを、口に出さない。それがタカラヅカ。

これがお笑いだったら話は別だ。吉本新喜劇で某大御所の息子が登場すると、彼が演じている役柄に対して罵倒するはずの場面で、罵倒の台詞がだんだん「てめえに力があるわけじゃねーんだよ、親の七光だろ!」と本人への突っ込みに変化して、客席がどっとウケる。本音をずばっと言ってウケる。…タカラヅカだとあり得ないよねー。

タカラヅカは、より良くなるために、美しい建前を守るために、いろんなことを口にしないできた。いろんなことを美しく言い変えてきた。言わないで、生徒たちの頑張りでなんとかしてきた。ファンは言外のことも承知して、ついていってた。

そういった美徳が、ひっくりがえすと、口にしなければいけないことですら、口に出さない風習になっちゃうんだよね。みんなで話し合ったほうがいいこと、客観的に分析しなければいけないことも、表には出さない。何が正しいか、何が正しくないか、多くの人の前に開陳して諮らなければいけないことでも、すべて「無かったこと」にしてしまう。

美徳に続いてほしいと思う。健気であってほしいと思う。でも危険だ。

だからこそ、上手な舵取りが必要なのになあ。常識ある判断を上層部ができなくちゃいけないのになあ。細心の注意が必要なのになあ。一部の生徒の妄言にふりまわされてどうするよ。

また愚痴になってしまいました。

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あっ、ところで。ローズマリー(一花ちゃん)の病院の看護婦、めちゃめちゃあやしかったよねえ。いつ「クリストファー(ふみかちゃん)の手下でした」って出て来るかと期待してたのになあ。
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プラスチックにかける夢 [ヅカってなんだ?的記事]

『麗しのサブリナ』の「プラスチック! プラスチック!」のナンバーはかなり変。だって今の世の中、プラスチックなんて、安っぽいものの象徴だもの。

でもこの時代は、化学でできた物質に夢があったんだよね。少し後の時代だけど、60年代や70年代の古着はポリエステルで分厚くて重い。でもそれがかっこよかった。→SHOUT

しかもそれが、世界を豊かにする、平和にする、という建前でなされているのも面白い。

サトウキビからプラスチックを作る事業を展開する。そのために、サトウキビ畑を持っている事業家の娘と、自分の弟とを結婚させようとする。明らかに政略結婚。

でも、憤る弟に兄は言う。「プラスチック事業で、貧しい子どもたちが靴をはけるようになるんだぞ」

プラスチックという新しい物質だけでなく、事業を起こすことそのものに夢があるわけです。自分の夢じゃなくて、世界の夢。世界中を幸せにするという夢。それがたとえ建前、キレイゴトだとしても。

これが本来の起業家の態度じゃないの〜? 松下幸之助しかり、井深大しかり(よく知らないで書いてますが)、そして小林一三しかり。

テレビで、日本は不況なのに、社長の給料だけは2.5倍になっていると報じていた。ショップ99の社長が「資本主義なんだから社長が儲けてどこが悪い」と言っていた。100円ショップ大好きな緑豆は激しくショックを受けている。「より良いものをより安く、みたいなことがお店に書いてあるのに、単なる儲け主義だったの〜? ショップ99も〜? かなし〜いい」。

「ショップ99「も」」というのは当然、「より良いものをより安く」をモットーにしていたはずの、阪急を踏まえているわけで。

ライナスみたいな建前、キレイゴトを言う起業家はおらんのかのう。

儲けたいって気持ちはもちろん当たり前だけど、建前として「社会全体に貢献するかどうか」を判断基準にしなければいけないんじゃないの。技術を開発する人だって、研究意欲でついついいろんなもの開発するけど、ノーベルだって最終的には兵器を開発してしまった後悔でノーベル賞の設立を遺言したじゃないですか(話が大げさ?)。

小林一三がとなえた「女性や子供が安心して見られる健全な国民劇で、社会を良くする」なんて建前は、風前のともしび。だけど舞台の上では、素晴らしき建前「プラスチック!」が歌われている。

思いだそうよ。サブリナの時代のキレイゴトを。一三はじめ、様々な起業家が口にしてきた建前を。「プラスチック!」は笑っちゃうぐらい時代遅れなことを言ってるんだけど、その時代遅れなキレイゴトを大事に守ってきたのがタカラヅカなんじゃん!

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