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南太平洋を見て人種差別について考える [ヅカってなんだ?的記事]

長年の友人が、突然、轟悠様にはまった。食べ物も喉を通らないほどだという。今まで散々、私が宝塚の話をして、冷静に分析してくれていたのに、それをすっ飛ばしてファンにさせちゃう轟様ってすごいわ。

まあ、そんなわけで、『南太平洋』のDVDを借りました。ちょうど『オーシャンズ11』で忙しくて、観に行けなかったので、ありがたく視聴。

名曲(『With a song in my heart』で散々聴かされた、とも言う)揃いの作品なのね~。

しかし、いわゆる「宝塚らしさ」とは違う作品でありますね。と、友人に感想を語っていたら、「宝塚らしくないって具体的にどういう点?」と聞かれて、あらためて考えてみた。(「これは宝塚らしい」とか「らしくない」とか言ってる時点で、古参気取りで、新しい潮流を阻害する嫌なやつになっていることを激しく自覚しつつ…) 

・男役が主人公ではなく、娘役が主人公。

これについては、娘役の比重がどんどん軽くなっている昨今、私は嫌いじゃないです。私がファンになる直前には、トップ娘役が辞めるときの主演公演があったし、それがなくなってもディナーショーやってた。けど、今ないじゃん。公演サイクルが短くなったってこともあるけど。初演ベルばらが初風諄の開演アナウンスだったような、娘役/女役で「主役はります!」っていうのも観てみたい。

・男役の年齢が40代。

これも、轟様の年齢に合わせた役ということなんだろうけど、アリだと思った。轟様主演公演でヒロインをやった娘役はトップになれるというジンクスもあることだし、これからは娘役を育てるというお役目もいいのではないかしら。ダンディなおじさまに育てられる娘役、いいじゃーん。

・海外ミュージカルだから役が少ない。

海外ミュージカルのこうした弊害は散々言われていることだけれども、やはりどうしても不満が残る。初期の宝塚の形態が女学校の学芸会的であったことから考えると、役の多さはどうしても譲れないところ。

・で、人種差別ですよ。

現地人とあんだけラブラブだったのに結婚となると躊躇する真風。あんだけラブラブだったのに、現地人と結婚していたとわかったとたん、トドさんを 嫌がりだすヒロイン。まあ、普段は普通に接していても、いざ婚姻となると躊躇するってことはあるだろう。

けど、、、、悩んだすえに結婚をあきらめるとか、悩んだすえに子どもを育てることを決意するとか、肝心なところの描きこみが薄いから、「ええ?」 となってしまう。

人種差別が身近にある国なら「はいはい、そういうことね」ってすぐに理解できるのかもしれないけど、、、いや、日本にも差別はあるよ。でも、肌の色での差別ではないよね。だから、途中で属性が判明して驚く、みたいなパターンが多くて、肌の色でわかる差別とはストーリー展開が違う。気がする。だから、作品としてはもっともっと書きこまないと、中途半端。

でも宝塚でそれは「らしくない」ってことなのかなあ。そもそも、人種差別にかかわる作品をやるなってことかなあ。「宝塚で、もろに人種差別取り上げるんだー」と思ったし。これ以上の書き込みは無理なのかのう。

と、しばらくうだうだ考えていたんだが…



いやいやいやいや。

むしろちゃんと描写すべきなんじゃないか。


『復活』で社会主義のことをちゃんと書かなかったのと似ている。みわっちが社会主義のことを説明していたけど、それは登場人物の属性として話していただけ。最終的にヒロインがなぜこの社会主義者と結婚するに至ったのかは、完全にすっとばされ、「え、なんでさっきまで蘭寿さんのこと好きだったのに、こっちに鞍替えすんの!?」と誰もが驚いたものです。ヒロインは社会主義を選んだ、それが原作で一番わかりやすい結末だと思うんだけど…。

『ロスト・グローリー』も、イアーゴが卑屈になる理由に人種差別があったことをもっとしっかり描いたら、え、なんでそんなに怒ってるの? ってならなかったんじゃないか。

だからいっそ、こういう問題はしっかり書いてみることにしてはどうかなあ。


そもそも、「宝塚らしさ」ってなんだろう。トップの役がどうの、じゃなくて、本質的な意味で。

歴史的な経緯をつきつめていくと、「宝塚らしさ」=「女学校」だと思う。大正時代の女学校では人種差別なんか教えなかったかなあ。でも、少なくとも戦後の学校では、教条的であっても教えたと思うんだが。

あとは、やっぱり、「清く正しく美しく」かな?

「清く正しく美しく」は、(いじめが無かったと言い張ったりして)清いフリをすることではなく、真の清さを目指すもののはず。だったら、差別をなくしたりするような清いことなら、もうちょっと心情を深く書いてみちゃあどうだろう。

南太平洋は、最終的にヒロインは自らの差別意識を克服する。それがハッピーエンドなのだから。


(あ、石田がセクハラ入れて「宝塚らしさ」に挑戦するのは、女性差別を助長しているからアウトよ)

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「なかったことにしたくない 実父から性虐待を受けた私の告白」を読んで [ヅカってなんだ?的記事]

あうら真輝。『落陽のパレルモ』のときに変な辞め方をしたという記憶があります。ネットでは、心を病んでいたんだとか、同期にいじめられたんだとか言われてました。

それが、本名東小雪さん=東京ディズニーランドで同性結婚式をした元ジェンヌ、そしてLGBTの活動家ということでここ数年メディアに取り上げられ、へーーーと思っていましたが。

本を書いたということで買ってみました。心を病んでもいたし、同期にいじめられた(険悪になったというべきか?)というのも、ある意味あたってました。でももっともっと、いろーーーんなことがあったのですね。なにごとも、詳細を知ることが大事だとつくづく思いました。

(以下、けっこうネタバレです!)



この本では、実の父親から性的虐待を受けていたこともカミングアウトしています。お父さんと仲が良かった楽しい思い出もある。でも一方で、おぞましい、本当にひどい虐待の記憶もカウンセリングで蘇ってきた。お父さんが死ぬ前に後悔していたようにとれる言動もあるし、お母さんの葛藤もあるし(お母さんは性虐待を知っていただろうに、なかったことにしている、つまり虐待を助長)。「性的虐待」という言葉から感じる「おぞましい」「かわいそう」「ひどい」という直接的な印象とは違う、もっともっと複雑なものを感じました。

全体的に冷静に、客観的に書かれています。前向きで、社会全体をよくしたいという気持ちにあふれています。個人を攻撃するものではありません。虐待を受けた人、セクシュアリティに悩む人にとっては、大きな希望になる本だと思います。

「なかったことにしたくない」というタイトルが、素晴らしいです。自分自身で性的虐待をなかったことにしていた、そうしないと生きていけなかったから。でも、体も心も拒否反応を示して、拒食症になったり、学校に行けなかったりする。お父さんもお母さんも、なかったことにして表面は幸せな家庭を演じていた。

こういうことって、蔓延してますよね。特に日本は、原発も、第二次大戦中のことも、客観的に分析して対処しなければ改善できないのに、なかったことにしようとしている。そうして放置するから、どんどんひどくなる。

で、宝塚です。あの96期のいじめ事件をなかったことにしている宝塚です。なんて絶妙なタイトルなんでしょう。

宝塚では、ほかにもなかったことにしていることがあって、この本ではそれを「暴力」と規定しているのが画期的です。それは「指導」。

スターさんの思い出話として、本科が予科に行う「指導」の厳しさは、「みんなで舞台に立つには必要なこと」「今となっては楽しい思い出」と語られますが、私はずっと疑問だったんですよ。廊下を直角に曲がることが、舞台に立つのに必要なことなのかあ? ちゃんと眠って授業を受けるほうが舞台に必要なことなのでは? 昔は掃除は専門の人がやってたんだから必要ないんじゃないの? と。でも、詳細を知らないから、「自分のような人間には、馴染めないところなんだろうなあ、宝塚って」というところに話を落ち着けていました。

この本には「指導」の詳細がかかれています。怒られる理由が、そんなくだらないことだったとは…。完璧にこなすことが無理なことなんですよ。それを、たまたま発見されたとき、怒られる。なんて前近代的。しかも、その後の同期同士の「お話合い」という名の対策会議を含めると、ほぼ徹夜。それが毎日。(ちなみにこの「お話合い」、96期では原告さんの吊し上げ会になったわけですが、学校側は「お話合いなんて存在しない、消灯時間に寝ている」と主張してました。バカだね~) 仙堂花歩が吉本のトーク番組で言ってた「予科顔」のことも書いてありました。怒られたときにするべき顔が決まっているという。「あなたになんか謝られたくないです!」という本科生のセリフと、それを待ち構えていたかのように発する「すみませんでした!」というセリフ。ゲームだと思えばそれはそれでやり過ごせるかもしれないけど、半分以上の生徒の生理がとまるような生活は、正常じゃないですよね?

この本がさらにすごいのは、自分が本科になったときの加害が楽しかったと告白していることなんです。おおおお。そうか、やっぱりそういう美味しい面があるから続いているんだ。そして、それを後ろめたいと思うからいままで誰も言わなかったんだ。

96期以降、寮での指導はなくなった(最初の数週間だけはあったらしいですが)、指導があればあんな事件は起きなかっただろうと言われています。それは本当に正しいと思います。だけど、じゃあ、本科の指導を戻したほうがいいかというとそれは違う。だってどちらも暴力だから。

初舞台生がおかれた状況のひどさも読んでいてつらかったです。いじめ事件にしても、「指導」にしても、全体的に基本的人権をあまり考慮しない職場であることがわかり、「ああ、やっぱりな…」と腑に落ちました。(96期の裁判の記録を読んでいて「外部漏らし禁止規則」というものがあることを知りましたが、普通の芸能人と同じように、戦略的に必要であれば彼氏がいることを黙っているとか、はしたない話をしないとか、それでいいじゃないですか。過剰に秘密の園を演出するから、こういう前近代的な体制が秘密のままで野放しになってしまうんじゃないんでしょうか。)

こういう世界で生き残っていける人は、たまたま運がよかった、たまたま体力があった、たまたま器用だった、たまたま精神的に追い詰められにくいタイプだった、、、ということなんでしょう。まさにサバイバル。もちろん、舞台の世界は厳しく、体力も運も器用さも精神力も必要で、そういう人しか上にはあがれないことは理解できます。だからといって、そうでない人を無惨に追い出すような形になるのは、人権侵害でしょう。芸事の世界では当たり前? 人権が守られない芸事なんて、やめたほうがいいと思います。スポーツでも、お相撲でも、会社でも、なんでもそうです。

100周年の式典のトークで先輩たちが、おかしなルールについて疑問を呈し、そんなルールは昔はなかった、と話していたことも書いてあります。マヤさん(未沙のえる)も、必要ないルールが多すぎるとサヨナラ番組で言ってましたね。個人的な意地悪は昔からある(天津乙女だって代役の人に意地悪したって本に書かれてます)、だけどそれを恒常的な暴力にしてしまう体制は本当になんとかしないといけないと思うのです。

東さんは、宝塚を否定しているわけではないんです。もともと憧れて入ったのだし、先輩たちに対する敬意が垣間見えるのも好感が持てました。

素敵な世界は、内部も素敵であってほしい。一人ひとりが幸せになれる世界がきてほしい。東さんの本が良い契機になればいいなと思いました。


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アイドルの丸坊主謝罪は江戸時代のはりつけと似ている [ヅカってなんだ?的記事]

謝罪映像を見ながら、江戸時代の姦通罪を思いだした。

江戸時代、姦通は罪だから、見つかったら男女ともにはりつけになる。その様子を見て、庶民は楽しむ。刑罰はイベントとしてみんなが盛り上がるもの。ましてや、姦通罪ならさらに盛り上がる。特に女性に対して世間の見る眼は厳しい。厳しいからこそ、みんな興奮する。ウハウハする。

おんなじやん。

命こそ取らないものの、女性の何かをむきだしにして、さらしものにして謝罪させるって点で、そっくりおんなじやん。簡単に言えば公開セクハラだよ。

宝塚でも、男女交際はタブーだけど、だからといって禁止を明言しているわけではなく、伏せているだけ。その証拠に、退団後すぐ結婚するジェンヌも多い。もし、ジェンヌのお泊りが報道されたとしても(報道されるほど世間から注目されてないから、あり得ないけど)、せいぜい「友達です!」と言いはるぐらいだろう。なんか、昔のアイドルみたいだね。

そもそも、男女交際は犯罪じゃない(念のための注:いじめは犯罪行為だから一緒にしないようにね)。ただ、ファンが露わにしてほしくないと望んでいるから、ジェンヌが自主的に目にふれないように心がけている、というもの。

その暗黙の了解が成り立っているのは、商売を売るほう(ジェンヌ)も女性、買うほう(ファン)も同じ女性が多いからこその文化だったりするのかなあ。ヅカファンは、ジェンヌの何かをむきだしにさせて興奮したい、なんて思わないもん。自分がされたら嫌だから。そういう女性差別的なことにヅカファンは敏感だから。

女性でAKB好きな人はどう感じているんだろうなあ。。。

アイドルの神聖性がなくなってきた現代、あえて神聖性を演出するのがAKBなんだろうけど、これはやりすぎだと思った。

(それにしても、丸坊主にすることが謝罪になるって、いったい何が始まりなんだろう。出家ってこと?)
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遅れてきたスター春日野八千代 [ヅカってなんだ?的記事]

気になっていた新聞記事をやっと読みました。

有馬稲子様が9/4の日経朝刊「喪友記」(最終面)に、春日代八千代様について書いていました。

「宝塚と聞いて誰もがイメージする、男役と娘役の華麗な恋、まばゆい衣装や大階段、心ときめく音楽や踊り、そうしたことはすべて、春日野さんがいて、初めて舞台芸術として確立し、それを後輩たちが守り受けつぐことで、世界に誇るレビューに育てあげたのです。」

…ちがーーーうっっ!! byトート閣下

まあ、その場に居合わせていないのでわからんのですが。当時の『歌劇』を読んだだけですが。しかも、大スターで、超キュートな有馬稲子様に物申す形になってしまって恐縮なんですが。

昭和5年の『パリゼット』で白井鉄造のレビューが始まり、ロマンチックな、おフランス仕立てな、パステルカラーの、おおがかりな舞台装置の、淡いラブストーリーの、という、今でいう宝塚らしい要素がどんどん登場して、数年の間に確立されていきます。

まずスターになったのは、エッチン&タッチン(橘薫&三浦時子)という、今からしたら「男装の麗人」扱いの、ジャズ歌手のコンビ。それから、大空ひろみという、子役的なスター。「うちのパパ」という曲で人気が出ました。今の系譜につながらないから、あまり触れられないですが、みなさん大スターです。

小夜福子も人気です。小夜はいわゆるフェアリー系のスターさんで、この頃すでに何度も主役を演じています。また、昭和7年1月の『サルタンバンク』で、よっちゃんの同期である葦原邦子が主役を演じ、大人気となります。葦原邦子は歌が上手く、男らしいタイプです。大体、フェアリー系の小夜、アニキ系の葦原が並び称される感じ。

一方、この頃のよっちゃんは、「月組の中堅」(『歌劇』昭和7年11月号)。昭和8年初めに、天津乙女が休演し、小夜福子が天津乙女のおはこである鏡獅子の代役をつとめますが、小夜の代役がよっちゃんでした。そういう位置付けです。よっちゃんは昭和8年5月に『ジャンヌの扇』で初めて主演しますが、これは中劇場(今でいうバウホール?)ですから、葦原にはかなり遅れています。

だから、夢夢しい宝塚が出来始めた頃、よっちゃんの前にも、大スターはいたんだよおおおお。

だって、葦原邦子と同期なんですよ、よっちゃん。なのに、葦原邦子のほうが先にスターになった。この違いは、なんなんだろう。(男役をやったのが遅かったせいもあるんだろうけど…)

ふと思った。マイクの有無なんじゃないか!!?

葦原邦子は歌ウマさんで、声量があったそうです。マイクが導入された昭和9年より前でも、バリバリに歌っていたことでしょう。エッチンタッチンも大空ひろみも、歌で人気が出た。でも、よっちゃんは全く歌ウマさんではない。「劇団はスターにしたいのかもしれないが、あの歌のうたいようでは心細い。」(昭和8年3月号)なんて書かれてます。マイクが入ってからのほうが、ずっとそれらしくなったことでしょう。

ではなぜスターになったか。「色気」だよ「色気」。きっとそうだ。「油壺から抜け出たような色気」「眼に色気がある」なんて書かれてました。「色気」というタームが出てきたのは、よっちゃんが初めてかもしれないですよ。

だから、よっちゃんの功績は、「男役と娘役の華麗な恋、まばゆい衣装や大階段、心ときめく音楽や踊り」の確立ではなく、「男役の色気」の確立だと思うんです。我々がきゃあきゃあ言ってる「ターコさんのあの床ごろごろが!」「マリコさん包容力ハンパない!」「蘭寿さん腰の動きがヤバイ!」とかの確立だと思うんです。(例に私の趣味入ってますが、お好きなスター名とお好きな形容詞を入れてください)

だとしたら、やっぱりよっちゃんはすごい、我々はいくら感謝してもし足りない。それに間違いはない。

って話なのでした、はい。

(注:『歌劇』の引用は主旨です。)

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女のイヤな部分は娘役に似合わない [ヅカってなんだ?的記事]

CONGA!!の中で唯一静かな場面。トップコンビと、二人の影、そしてみわっちの4人しか登場しない。

この場面で、トップ娘役蘭ちゃんの影が、るなちゃんだということが、私には面白い。っていうか、男役だってところがイイ。

この「影」ってのは、よーするに、男の嫌な面、女の嫌な面、嫉妬とか憎しみとかそういうものを表しているんだよね?

これがもし娘役だったら、どんなにカッコイイ娘役だったとしても、きっとイヤな気分になると思う。

だって、『長い春の果てに』の再演がそうだったんだもの!

初演では男役が演じたナタリーとフローレンス。再演で娘役が演じたら、なーんか「女の嫌な面を見せつけられた」気分になっちゃったんだよね。。。一花ちゃんもきらりも、本当に魅力的な娘役なのに。

そもそも、ナタリーって、別れた男に「この家は私が住むはずだったのになあ」とか言って、相当恨みがましいよね? 自分に告白してきた男に「これからあなたを愛そうと努力するわ」とか言ってOKするなんて、失礼だよね? フローレンスだって、本命に振られたからって手近にいる男にすぐ乗り換えるなんて、ヤな女じゃん?

いや、そんなこたぁ、現実にはたくさんあるさ。だからといって、その女性を責めたりなんかしないさ。人間だもの。でも、タカラヅカの舞台では「うわっ、生々しい」って思っちゃったのよ。それも、再演でだけ。

娘役が女のイヤな部分、しかも現実によくありそうなイヤな部分を表すと、と〜っても、生々しい。

これを男役がやると、生々しくないんだよねえ。不思議なことに。本来どっちも女性なんだから、生々しいも何もないはずなのにね。「女性→娘役」に比べて「女性→男役→女装」は、一段階増えてることもあって、「架空度」が増しているんだろう。だから、影が本体を翻弄し、痛めつけていても、昇華された何かに見えて、むしろ気持ちがいいんだよね。
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若いけど熟してる、それが魔法の力 [ヅカってなんだ?的記事]

そうなったらいいなと思っていたけど、無理なのかなとも思っていたので、とにかくめでたいです。壮&あゆっちトップ。

最近の若返り政策があまり私の好みではなかったので、熟した学年の二人であるというのも、うれしいです。ていうか、娘役は本来、これぐらいでトップ就任するのがベストだよね? 若すぎると、もったいない感じで辞めることになっちゃうよね? キャリエールを演じきれるような生徒が、トップになる。真っ黒い服で男を「妊娠したのよ」と脅すような怖い女性を演じきれるような生徒が、トップになる。いいじゃん、いいじゃん!

宝塚歌劇は、若くてきれいな女性が舞台に立つのを楽しむものなのか。若いことイコール「華」なのか。

否。少なくとも私にとっては。

宝塚は常に、全く正反対の要素をあわせもっているところだと思います。プロ、なのに、アマチュア、とか。男役、なのに、女装、とか。その正反対の引っ張り合う力が、舞台の上に、この世ではありえない幻を見せてくれる。このマジックを起こす力は、小林一三の矛盾ばかりの文章ととてもよく似ています。

だから、若い女性であることが前提なのに、ただ若いだけじゃ全然つまらない。むしろ、若い範疇の年でありながら、熟して熟して、大人の芸を見せられるようになったとき、初めて、魔法が起きる。私はそういう宝塚が観たいんじゃあああ。

まあ、銀橋でいたずら小僧のように客席を挑発してくる、やんちゃな壮さんと、ぷくぷくほっぺの可愛いあゆっちなら、じゅうぶん「若い」キャラだけどね^^;

それに、『若き日の唄は忘れじ』は映像で見て、いい作品だなあと思っていたので、とても楽しみです。たっくんの久々の日本物演出だし。(あと、まっつのTCA2003再びのブラックジャック!! あすかのピノコが見たいぜ!)(ベルばらは?ベルばらは?)(…)
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だんだんわかってきた 音月桂退団発表に関連して [ヅカってなんだ?的記事]

キムの退団記者会見をスカステで見た。

台本を読まされているようだったよ…。

最近ヅカを知ってキムファンになったという友人が「きっと、退団後の作品が決まったとか、そういう急な、いいことがあるんですよね!」と言っていて、そうだといいなあ、と思っていたけど、あの顔を見たら、とてもそうは思えない。

ユミコを退団させてまで急いでトップにしたのに、なんでこんなに早く辞めさせるんだろ。

よーするに、劇団は誰か(小林家とか、上層部の人たち)の、私的な持ち物なんだな。ということが、最近やっと実感できてきた。

その「誰か」の中にもいろいろな勢力があって、「わしはこの子をトップにするんじゃ」「いいえ、私はこの子を推すわ!」「公平さんの遺言を守らねば!」「んなもんどうでもいいんじゃ」みたいな感じでぶつかりあって、変な落とし所になっちゃったりするんだろう。メモカの件とか、準トップとか。で、「なんかチケット売れないね」「若返りさせちゃえばいいんでね?」みたく、また、場当たり的に決まる。(全部推測ですよ、推測。でもあながち間違いではないと思う)

つまり、劇団全体の運営を考えた長期的な見通しなんか無い。ましてや、ファンの心情を汲んだりはしない。

そんなんじゃ、まるで、ジェンヌさんは使い捨ての商品みたいじゃないか…! ←いや、だから、まさにそうなんだよ…。

一人一人のエラい人は、その場その場では、自分が推している子を大事にしているんだろうけれども、全体の運営からしたら、結果として使い捨てになっちゃってる(ことがままある)。誰かを大事にしすぎて、ほかのジェンヌさんがもったいないことになり、持ち上げられてたジェンヌさんでさえ、何かが変わればさほど大事にされなくなったりする。

はぁぁ。ジェンヌさんたちは健気だのー。あんな重労働をさー、笑顔でこなしているんだよ、涙が出るよ。そりゃあ、ファンやパトロンからは「蝶よ花よ」と扱われて、日常の雑事をしないで済むような生活をして、一般常識に欠けている(人もいる)かもしれない。でも、劇団での扱いはあまりにも「使い捨て」じゃないですか。それなのに、「夢の世界」とか言ってるんだよ。よよよ。

もちろん、芸能人とはそういうものかもしれない。でも、そういう「芸能」のイメージを払拭して、「学校」として「生徒」が大事にされるイメージを打ち出したのが、小林一三の戦略だったはずじゃん。ここまで、「使い捨て」が見えてしまうと、戦略を放棄しちゃってるよね。

まあ、こうしてファンがジェンヌに同情することで、チケットを買ったりするのだがら、それも結果的には一つの戦略なのかもしれませんがねっっ。(ちなみに、タイガースファンも同様だそうです→過去の記事

以上、暗い話だけど、キムや雪組子たちは笑顔で頑張るしかないのだから、ファンはファンで、ちゃんと「よろしくないことはよろしくない」と言うほうがいいかな、と思って書きました。


>>この件に関連して面白かった記事
「二番手の重要性」
「ワタシ的宝塚「ことわざ、あなどれず。小林家」

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どうしても譲れないこと [ヅカってなんだ?的記事]

周囲にヅカファンが増えている。タカラヅカが一般的になってきたんだなあ、と感じる。

そういう人に、あらかじめ「私は濃い人が好きなんです」と言うことにした。

いろいろ突き詰めて考えたら、そうなった。

たとえば、ファンクラブに入ってディープな活動してます、とかは言わない。引いちゃう。観てる回数も、あまりに違いすぎると引かれる。または「それだけしか観ないの?」となる。「あの人、子どもも作らず、ヅカにばっかり入れ込んでて、痛い人よね。私はああはなりたくないわ。」と思われていたりとか。(ほぼ実話 笑)

脇役が好きだというのも、けっこう少数派らしい。おそらく、劇場にいる9割ぐらいの人は、脇役には興味がないらしい。だから、これも最初の頃は、言わないようにしている。

ほかにも、池田文庫や演劇博物館に通っています、っていうのも言わない。川崎賢子の講談社メチエは読んでるよね? なんて聞かない。

もちろん、裁判のことをどう思っているかなんて、聞かない。初心者の夢を壊してしまうし、今観ている人の大半は、残念ながら気にしていないだろうから。ましてや、地裁で記録読み込んでる人なんて、1%もいない少数派だから。とりあえず最初の頃は様子を見る。

できるだけ、いろんな人と話をしたいと思う。

でもどうしても、どうしても、どーーーっしても譲れないのは、「濃い」なんだ。

自分にとって、どっぷりはまったのは信仰心で、それを妨げたのは裁判で、だからそのあたりは重要。

でもそれ以前に、最初に宝塚の扉をあけさせたのが、濃い人だった(リカちゃんね^^;)。だから、そこは絶対に嘘をつけないところなのだ。

スカステのこだわりランキングの「キザな人」というお題。「男役はキザでなんぼなんだから、意味のないお題だ」と思いながら見ていたら、一位がリカちゃんのシニョール・ドンファンだったよ(笑)。
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娘役という型がはじけたときの一瞬の輝き [ヅカってなんだ?的記事]

今さらですが、かおりのサヨナラ番組を見て泣いた。「宝塚らしさを大事にしてほしい。」そんな当たり前のことを言うサヨナラ挨拶が、増えたような気がする。彩音も言ってた。みんな暗に心配しているんだろうな。

かおりは本当にいい女役になったよね。『情熱のバルセロナ』のリンダ、『ロミオとジュリエット』のキャピレット夫人、『黒い瞳』のエカテリーナ。そして『ハウ・トゥ・サクシード』のヘディ。お色気おバカなのに、宝塚らしい品があった。

ヒロインをやった娘役が、堂々たる女役としてストーリーの中核を担い、舞台をオーラで埋める。こういうのを観るのが、宝塚の喜びの一つだ。

そして、悲しみの一つでもある。だって、そうなった後すぐ辞めちゃうんだもん。

なんで、こういう役者さんが辞めてしまうんだろう。いつかは辞めるものだとしても(乙女というのは卒業するものである)、もっともっと重宝されてもいいんじゃないかと思う。

「女役」を蔑称みたいに言う人がいるのも許せない。名誉なことだと思う。みんな、トップにこだわりすぎだ。っていうか、トップにばかり比重がありすぎなんだと思う、今の宝塚が。(って、そんな昔を観ていたわけじゃないけど、伝え聞く話)

まちゃみの、『竜馬伝』のお蝶さんもよかった。

アリスの、『Je Chanter』のジジもよかった。

あいあいは、まあ最初から女役っぽかったが、『夢の浮橋』とか、よかったなあ。

さゆは、女役ってキャラじゃなかったけど、『ロシアン・ブルー』でのはじけっぷりは最高だった。

あまちゃきの、『メランコリック・ジゴロ』の女役かっこよかった。もうちょっといてくれたら、もっといい女役になっただろうに。

…みんな、その頃には辞めることを決めていたのかな。決めていたからこそ、あそこまでの演技ができたのかな。だとしたら「娘役」(女役の対比語ではない意味。男役と違う娘役、という意味)ってなんなんだろう。

娘役という型を一生懸命作って、その中でもがいて、そこで熟成された何かが、娘役という型を破ったときに、ものすごい光を発するんだろうか。しかし、その光は長持ちはしないらしい。。。

そうした一瞬の光を観るために、劇場に通っているのかもしれないなあ。


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タカラヅカの本質云々はただの保守なのか!? [ヅカってなんだ?的記事]

宝塚イズム17号、発売になっています。今回は、ニジンスキーについてと、蘭寿さんトップ就任について(蘭寿さんというよりは人事政策の話です、蘭寿さんファンのみなさん、すみません)、書かせていただきました。

と言っても、その主張は、
・ニジンスキー→男同士のからみもやりすぎるとトップ娘役の意味なくなっちゃうんじゃないの?
・蘭寿さんトップ就任→充実した二番手時代って大事だよね

うーん、私って、こんなに保守的だったのか…!

今まで、「宝塚の伝統」というものを疑って見ていて、女性ばかり→男性だっていたでしょ、未婚者ばかり→既婚者だっていたでしょ、トップスター制度が特色→ここ40年のものでしょ、という見方をしてきたつもりでございました。

なのに、公演評を書くと、途端に「トップと二番手が拮抗していてほしい」「トップ娘役をないがしろにしないほうがいい」って、最近の慣習に固執している自分。。。

「宝塚は観るもんじゃなくて参加するもの」「海外ミュージカルもいいけど、宛書きが大事」っていう主張も、同じく、とても保守的だと思う。自分が観はじめた頃のことにこだわっているだけなのかも。

もし、今のファンの大半が、「トップ娘役なんていらねー」「男同士の絡みだけでいい」「会なんてめんどくさい」「メディアの露出が多ければそれで妄想できるからいい」「下手なオリジナルより海外ミュージカルのほうがいい」と思うのだったら、それでいいのかも。そうやって変わってきたのかも。ついていけない人は、脱落するのみなのかも。(いや、さすがに、「トップ娘役いらねー」「海外ミュージカルオンリーでいい」なんてファンは、いないだろうけども…いや、どうかな…。)

古い『歌劇』を読みながら、宝塚の本質はずっと変わっていないと思ってきたけど、それってなんだろう。自分がこだわっていることは何なんだろうか。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::
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