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バラの国の王子 / ONE (東京宝塚劇場 5/8 15:30) [観劇メモ]

(修正しました)

キムシンは『オグリ!』みたいなおとぎ話を大劇場でやりたかったんだろうな。魔法が大真面目に信じられている世界。戯画的な王様だったり、戯画的なわがままシスターズだったり、典型的な良い娘だったり、仲良くしてくれるたくさんの動物だったり。そういったものを、シンプルな語りと、面白いセットと小道具とで、楽しく安心して観られる作品。

って、大劇場サイズでそれはやっぱり無理だったよ。スカスカすぎる。

お話がシンプルすぎて、大劇場の客席全体を巻き込むことができない。おとぎ話、すなわち、あまり感情移入とかしないタイプのお話。小さな劇場しか作れなかった時代の感覚のお話。だから、せいぜいバウホールサイズで見るべきお話なんじゃないかなあ。

お話自体にも、意外性がない。今の価値観とたいして違わない。『オグリ!』は古すぎて、「何それ!?」っていうあり得ない展開が面白かったけど、「見た目じゃなくて心」とか「動物と人間の違い」とか、現代の価値観と同じ。そのうえ説教くさくて、ちょっと道徳の授業。

説教といえば『王家に捧ぐ歌』の平和云々だけど、あれは音楽や装置や場面場面がスペクタクルだから面白かった。『オグリ!』も、いろんな仕掛けが楽しかったし、それがバウホールサイズにぴったりな仕掛けだった。今回も、せめて魔法の部分の演出にもっと工夫があったり、大劇場サイズのスペクタクルだったら、良かったのかもなあ。って、要するに演出そのものってことじゃん。キムシンよ、君からケレン味を取ったら何が残る、とちょっとさみしい。装置や仕掛けを作るお金がないってことなのかしら。

大体、主要人物少なすぎ。(オグリは、オグリと照手以外に、パパ、ママ、ヘビ=おかみ、マメ、萬様、兄弟3人、老夫婦、お坊さん、商人=熊野権現ってところか。役名と役者名がごっちゃだ^^;)こっちは、王様=弟、良い仙女、悪い仙女、姉二人、商人、虎、もりえ(またも役名と役者名ごっちゃ)ぐらいじゃん、出番らしい出番があるの。全出演者数はオグリの何倍もいるのに。大きな舞台の上に、大勢がうじゃーっといるのに、物語はごく少数の人間だけで進んでいると、どうしても退屈してしまう。

きりやさんのあのかぶりものは、スタイル悪くなる魔法にかけられたのかと思うぐらい、頭が大きく見える。もっと違うかぶりものにはできなかったのか。まりもちゃんがとってもよかった。しっかりしていて、正直で、ああ、ベルってこういう子なんだなあって明確にわかる女の子だった。ベルのつぎはぎ衣装かわいい。マギーとすーちゃんのあの役ねえ、あれに5500円払ったんだと思った。ベル親衛隊の8人口に好きな男役さんがごっそり入ってた。動物のお面はどれも素敵。センスがいい。セットは今回はそんなにすごいものがなくて残念だけど、ベルのおうちの背景がかわいい。

ショーはこれまたつまらなかったぞー。草野先生ももうお年なのかしら。『タカラヅカ絢爛』とか好きだったのになあ。

カジノの場面とか、ついこないだDVDで『霧のミラノ』のカジノの場面を見たばかりだったので、落差が激しすぎる。あんなセット作っておいて、あれだけかい。霧ミラはセットも何もないのに、かっこよかったぞ。もっとディーラーとかいろんな人を出して、オギーのショーみたいにしようとか、思わないんかい。世界一大会の場面も、ちょっとさぶい。中詰めの衣装の色合いがひどすぎる。ペガサスの場面は、内容がちょっと芝居とかぶるし。

よかったのは、まりもちゃんがパンツスーツでバリバリ踊っていたことかなー。男前でかっこよすぎる。ほかにも、きりやんが歌って、まりもが踊る、っていう組合わせがけっこうあって、これよこれ、これが観たいのよ。あとは、そのかがまた萌花ゆりあちゃんと踊っていて、うれしかった。

そうそう、大階段での男役黒燕尾が宝塚FOREVERの不思議なアレンジで、これは面白かった。

ONEって、タカラヅカのことだったのねー。新たな自画自賛ソングの誕生なんだね。でも、長く歌い継がれる曲になるかというと、うーむ。高橋城先生のメロディもちょっといまいちだったなあ。タカラヅカ賛美のショーなら、もうちょっとなんとかならなかったのかなあ。

One for allって、「学校を犠牲にしても自分の名誉を守りたいのか」(=一人が犠牲になって辞めればほかの全員は助かる)っていう、例の台詞のこと? All for oneって、全員で一人を監視するような状況? タカラヅカの美徳である団結力とか家族的つながりが、悪いほうに悪いほうに使われてることもあるってことを、裁判でつくづく知ってしまった今となっては、こういうお題目に素直に頷けなかったりする…。

まあ、そんな今だからこそ草野はタカラヅカ賛美のショーをやりたかったのかもしれないが。ドカンとタカラヅカ愛が伝わるほどのインパクトは、残念ながら無かったです。。。

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キャンディードとFRONTに学ぶ「日常」 [近況]

震災前後、電車の中で読んでいたのは『FRONT』という戦時中のプロパガンダ雑誌を作っていた人の回想録(『戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々』多川 精一著 2000年  平凡社ライブラリー)でした。日に日に食べるものもなくなっていくのに、軍から紙が調達され、どこに宣伝するのかもわからないまま、ものすごく贅沢な雑誌を作っていた日々。花が咲くときに(空襲などで)存在しないかもしれない庭の薔薇に、とりあえず肥料をやるしかない日々。戦争が終わった焼け野原でも、雑誌を作ることしかできない日々。そんな本を読んでいたせいか、帰宅難民になった翌日、どこまで行けるかわからない電車に乗りながら、「戦時中の闇米の買い出しって、こんなだったのかなあ」と思ったりもしました。

その後の、電車が動いているかわからないし、停電になるかどうかもわからない日々は、戦争とは原因も大変さも全然違うけれども、なんとなく、その本に書いてある、混乱してるけどとりあえず目の前にあることをするしかない妙な日々と重なりました。こんなに非常事態なのに、「日常」しかできない違和感。こんなに非常事態なのに、とりあえずご飯食べて、寝て、仕事に行ってるって、頭がぐらぐらする。そのうえ彼らはアメリカの戦闘機を見上げながらカッコいい雑誌作ってたわけだからなー。

でも、冷静に考えるとそれしかできないわけで。そうすると、なんとなく、『キャンディード』を思いだしていました。ありとあらゆる災厄に見舞われ、善と悪を象徴する人物に翻弄されて世界中を旅する主人公が最後にたどりついた結論は、「とりあえず勤勉に耕そう」だったのです。頂点を極めた王様たちの亡霊が、「私はかつて王だったが、今は王ではない」と諸行無常を歌うナンバーの後、主人公は、目の前の日常を謙虚に行うことしかないと発見して幕が終わる。震災を経て初めてその意味が実感できたような気がしました。

なぜ今こんな話題を書いているかというと、ヴォルテールがキャンディードを書いたのが、1755年のリスボン地震を経た1759年だった、ということを知ったからです(なぜか岩波の広報誌『図書』5月号の編集後記で)。なるほど、私がキャンディードを思い出したのは、正しかったんだ! 何かを極めようとか、人を出し抜こうとか、もちろん最初から思ってないけど、でもどこかで「もっと楽しく」「もっと豊かに」「もっとスピーディに」と求め、「怖いことが起きたらいやだ」「苦労なんてしたくない」と怯えていたんですよね。そんなの、全然空しいことなんだな、と。観劇後1年経って、初めてヴォルテールの意図を理解できた気がします。(勤勉を実践できてないけど)

まあ、その「日常」が本当に良いことなのかどうか、っつーのは問題なんですが。良くないことを見てみぬふりしている大きな流れにまきこまれているのかもしれないわけで。。。放射線基準が引き上げられて、それでいいのか疑心暗鬼だけど、学校の先生たちは校庭で遊ばせるしかない。戦争に反対でも、一般人として日常をやり、目の前の雑誌を作っていた人たち。だからといって、良くないことをやめさせるような権力もなく。

本当に謙虚に勤勉な日常をやるってことは、ただ流され続ける日常とは違うのかもしれないな。本当に良いことがなんなのかを永遠に探し続けることも、含んでいるのかな。それが社会になかなか反映されなかったとしても。

『戦争のグラフィズム』は、戦争を知る世代として昨今の状況を危惧している著者が「日常の中でどう権力者側と向かい合うか」を書いた本。プロパガンダ雑誌を作って権力の側にいて、形としては戦争に完全にまきこまれながらの日常だったけど、それが芸術を守ることにつながり、のちにこうした反戦(声高ではなく、ごく当たり前の反戦)の本を書く。。。日常をやることでできること、日常をやりながらできること、日常をやってその後でできること。流されるだけじゃない勤勉な日常。。。ができたらいいな。

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