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キャンディードとFRONTに学ぶ「日常」 [近況]

震災前後、電車の中で読んでいたのは『FRONT』という戦時中のプロパガンダ雑誌を作っていた人の回想録(『戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々』多川 精一著 2000年  平凡社ライブラリー)でした。日に日に食べるものもなくなっていくのに、軍から紙が調達され、どこに宣伝するのかもわからないまま、ものすごく贅沢な雑誌を作っていた日々。花が咲くときに(空襲などで)存在しないかもしれない庭の薔薇に、とりあえず肥料をやるしかない日々。戦争が終わった焼け野原でも、雑誌を作ることしかできない日々。そんな本を読んでいたせいか、帰宅難民になった翌日、どこまで行けるかわからない電車に乗りながら、「戦時中の闇米の買い出しって、こんなだったのかなあ」と思ったりもしました。

その後の、電車が動いているかわからないし、停電になるかどうかもわからない日々は、戦争とは原因も大変さも全然違うけれども、なんとなく、その本に書いてある、混乱してるけどとりあえず目の前にあることをするしかない妙な日々と重なりました。こんなに非常事態なのに、「日常」しかできない違和感。こんなに非常事態なのに、とりあえずご飯食べて、寝て、仕事に行ってるって、頭がぐらぐらする。そのうえ彼らはアメリカの戦闘機を見上げながらカッコいい雑誌作ってたわけだからなー。

でも、冷静に考えるとそれしかできないわけで。そうすると、なんとなく、『キャンディード』を思いだしていました。ありとあらゆる災厄に見舞われ、善と悪を象徴する人物に翻弄されて世界中を旅する主人公が最後にたどりついた結論は、「とりあえず勤勉に耕そう」だったのです。頂点を極めた王様たちの亡霊が、「私はかつて王だったが、今は王ではない」と諸行無常を歌うナンバーの後、主人公は、目の前の日常を謙虚に行うことしかないと発見して幕が終わる。震災を経て初めてその意味が実感できたような気がしました。

なぜ今こんな話題を書いているかというと、ヴォルテールがキャンディードを書いたのが、1755年のリスボン地震を経た1759年だった、ということを知ったからです(なぜか岩波の広報誌『図書』5月号の編集後記で)。なるほど、私がキャンディードを思い出したのは、正しかったんだ! 何かを極めようとか、人を出し抜こうとか、もちろん最初から思ってないけど、でもどこかで「もっと楽しく」「もっと豊かに」「もっとスピーディに」と求め、「怖いことが起きたらいやだ」「苦労なんてしたくない」と怯えていたんですよね。そんなの、全然空しいことなんだな、と。観劇後1年経って、初めてヴォルテールの意図を理解できた気がします。(勤勉を実践できてないけど)

まあ、その「日常」が本当に良いことなのかどうか、っつーのは問題なんですが。良くないことを見てみぬふりしている大きな流れにまきこまれているのかもしれないわけで。。。放射線基準が引き上げられて、それでいいのか疑心暗鬼だけど、学校の先生たちは校庭で遊ばせるしかない。戦争に反対でも、一般人として日常をやり、目の前の雑誌を作っていた人たち。だからといって、良くないことをやめさせるような権力もなく。

本当に謙虚に勤勉な日常をやるってことは、ただ流され続ける日常とは違うのかもしれないな。本当に良いことがなんなのかを永遠に探し続けることも、含んでいるのかな。それが社会になかなか反映されなかったとしても。

『戦争のグラフィズム』は、戦争を知る世代として昨今の状況を危惧している著者が「日常の中でどう権力者側と向かい合うか」を書いた本。プロパガンダ雑誌を作って権力の側にいて、形としては戦争に完全にまきこまれながらの日常だったけど、それが芸術を守ることにつながり、のちにこうした反戦(声高ではなく、ごく当たり前の反戦)の本を書く。。。日常をやることでできること、日常をやりながらできること、日常をやってその後でできること。流されるだけじゃない勤勉な日常。。。ができたらいいな。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::
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