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「清く正しく美しく」にうっとりしてはいけないのだった [音楽学校裁判]

すっかり観劇回数が少なくなりました。

自分好みの濃い生徒さんが減ったっていうのが大きいかなあ。好みの作品が減ったっていうのもある。だんだんと自分の好みがメインストリームではなくなっていくっていうのは、どんな時代でも、どんなジャンルでもあるんでしょうな。

そして裁判ですよ。裁判がはじまってちょうど5年。(ユミコの退団発表からも5年か…)

一緒に観劇していた家族が、そのせいで一切観劇できなくなったことで、盛り上がりを一気に欠いたということもあり。

なんといっても自分のスタンスが激しく変わりました。

でもそれは、いいことだったと思っています。

私は宝塚を観ることが、めぐりめぐって公共の利益につながると思ってたんです。観た人が元気になるし、「清く正しく美しく」の精神を広めることになる、とね。舞台にうっとりすることと、そういう思想にうっとりすることとがあいまっていたんです。(イタイですねー)

でも、宝塚の組織は公共の利益は考えていなかった。基本的人権を無視するところだった。それで私の宗教心はガラガラと壊れてしまいました。(この記事とか)

それでよかったと今は思います。

何かにうっとりしてしまうこのメンタリティは、じつはすごくおそろしいからです。

だって、「清く正しく美しく」にうっとりすることの遠い遠い延長線上には、宝塚は素晴らしい→治外法権だ→人権無視、があるのだから! (この記事とか)

「清く正しく美しく」自体は、良いことです。でも、良いことを唱えることにうっとりしすぎると、排他的になってしまう。ほかのどんなことでも起こりえます。「「清く正しく美しく」を実行しましょう!」と唱える場合でも、「劇団の不正を正しましょう!」と唱える場合でも、内容の是非を別にして、うっとりしすぎて排他的になってしまう可能性があり、そのメンタリティは戦時中に軍国少女になったり、国防婦人会として活動することと、紙一重なわけですよ。

私は、劇場で、客席全員と舞台が一体となっている中にいるのが大好きでした。
デモをしている人たちを見て、楽しそうだな、とか思います。
裁判のことについて語るとき、熱くなってしまいます。

そのことと、軍国少女と、いかほどの違いがあるのか。

客席と舞台が一体となるのは素晴らしい。
デモも立派な権利で、どんどんやるべき。
裁判の話は広く伝えるべき。

でも、私のような人間は、ついついうっとりして、排他的になってしまっているんじゃないか。

本当の「清く正しく美しく」や、公共の利益のためには、うっとりしすぎてはいけない。そのことに気づけて、良かったと思います。



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