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歌わせたい男たち(紀伊國屋ホール 3/15 14:00) [観劇メモ(ヅカ以外)]

対立するAとB。「君が代」を歌わせたい人と、歌いたくない人。短くまとめてしまうとそれだけなんだけど、真実はそこにはない。人間はいろんなことを考え、感じ、人間関係も対立とか仲間とか、それだけじゃ括れなくって、いろんな位相を行ったり来たりしているんだよねえ。「真実は細部に宿る」—本来は全然違う意味だけど、でもそんなことを思った。

主人公は新任の音楽教師(戸田恵子)。君が代の伴奏をするために雇われた、元シャンソン歌手。政治的には全くプレーンで、しかも学校とはかけ離れた場(ナイトクラブ)で生きてきた。生徒に「ミスタッチ」と呼ばれるほどピアノが下手で、愛嬌がある。こういった人物を主人公にしたのが、まず正解。彼女がちゃんと伴奏できるかどうか、過剰なまでに健康だのなんだの気遣う校長(大谷亮介)。ピアノ伴奏じゃなくてCDだと教育委員会に目をつけられるだの、「君」は国民主権のことで「代」は時代じゃなくて社会全体の意味なんだ、と屁理屈を並べたりだの、彼の言動がまず滑稽。

なんとかして全員起立して歌わせよう、と校長が必死になればなるほど、それに音楽教師が翻弄されればされるほど、客席は笑い、何かを強制しようとすることのバカバカしさを感じる。それがこのお芝居の主眼。

けど、感動的なのは、一人でも不起立を貫く「ガチガチの左翼」の社会科教師(近藤芳正)との関係なのよ。

社会科教師と音楽教師は、アウトローと新入りということで通じ合うものがあったのか、ちょっとだけ親しく話しをする関係。その内容が、学校の裏庭に居ついた野良猫の世話だというから、たまらないではありませんか。

でも、「君が代」問題では二人は対立関係になってしまうの。コンタクトを片目だけなくしてしまった音楽教師の視力を今すぐ正常にするためには、社会科教師の眼鏡がピッタリだ、ということで、「じゃあ、校歌の伴奏のときだけ貸してあげます」「国歌のときはどうすればいいんですか」「眼帯すれば片目で弾けるじゃないですか」「国歌のときだけ眼帯で、校歌のときは眼鏡なんですか?」ばかばかしい。ばかばかしいけど、切ない。だって、二人はちょっとラブなんだもん! 

揉めている校長や英語教師(若くて国旗国歌を愛している)とのやりとりで社会教師の思想信条が語られ、音楽教師もそれに同意しつつある。だけど。「私は生活のために国歌伴奏をしなければいけない」のだ。社会科教師はやはり「私は思想信条を守るために国歌を歌いたくない」のだ。

結局、音楽教師は国歌の伴奏をしたのだろうか。校長は「一人でも不起立がいたら屋上から飛び降りる」と言ってたけど、飛び降りたのだろうか。社会科教師は起立したのだろうか。この芝居ではそれは描かれない。

だけどラストが素晴らしいの! もったいないから詳細は伏せますが。タイトルの「歌わせたい男たち」って、校歌を歌わせたい校長や英語科教師のことだと思っていたけど、見終わってしばらくして気がついた。もうひとつの意味があるのだあ。音楽教師がシャンソン歌手であったことにも意味があったのだあ。なんというラブストーリーなのでしょう。。。もちろん二人とも大人で(分別があるという意味ではなく)、家庭もあったりして、思想信条としてイコールなわけはもちろんなく、ある面では対立して、ある面では共感して、そんなふうに心が通い合ったりすることって、あるんだよねええ。

ちなみに、私が高校生だった80年代後半、卒業式に国旗国歌はありませんでした。私が卒業する年にはじめて、国旗掲揚と国歌斉唱をすすめるようなお触れがあったと思います。友人たちと校長先生に質問に行きました。校長先生は「国旗掲揚も国歌斉唱もしません」と明言しました。それがたったの20年でこんなことになっているんだなあ、と(子どもも、教師である友人もいないので)はじめて実感。「宝塚心のふるさと」なら歌いたいけど、大好きな高校の校歌なら歌いたいけど、全体主義的な歌は歌いたくないなあ。でも自分も、やらなきゃクビって言われたら伴奏するだろうなあ。きっと職場内で、いろんなドラマが生まれるんだろうなあ。

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