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ブラックジャック(日本青年館 2/24 15:00) [観劇メモ]

私の愛するハリー作品がここにありました。ものすごく嬉しかったです。

そりゃあ、ハリー信者だから。どんな作品でもそれなりにハリー作品の匂いを感じて、それなりに楽しんできたけど。やっぱり、ハリー作品のここがキモだっていうものは、ある。そして、最近の作品には、そのキモがなかった。だからさみしかった。

それは、「生きててもいいんだ」もしくは「何があっても生きていくしかない」です。

ブラックジャックはそもそも命を扱った原作だから、どうしてもこの「生きててもいいんだ」につながらざるを得ないんですね、きっと。そのことで、ハリーが再び目覚めてくれたのだとしたら、こんな嬉しいことはありません。

と、信者のわりにえらそーなんだけど^^;

あともう一つのキモが、女性が困難を乗り越える、です。

わたし的には、2007年の『マジシャンの憂鬱』を最後に、ハリー作品は生彩を欠いていると思っているのですが、それ以前のいまいちだった作品なども考え合わせると、女性の描かれ方がキモなんじゃないかと気づきました。マジ鬱では、かなみの役が困難を乗り越えている。お堅いガードマン(ガードウーマン?)が、男性とダンスをする、というね。『BOXMAN』のお花様の役とちょっと似た役かも。『薔薇に降る雨』のウメちゃんや、『ブエノスアイレスの風』のヒロインは、家族の問題を抱えている。でも、2008年の『マリポーサの花』や昨年の『ダンサ・セレナータ』は、女性が添え物で、革命家である兄弟に迷惑をかけられているだけ。彼女自身はほとんど変わらない。これがつまらない(マリポーサは部分部分は楽しかったけどね)。『ラスト・プレイ』に至っては、ヒロインがいない。これは大人の事情だから仕方ないんだろうけど。思えば『ラ・エスペランサ』も、あすかの役がおいしかったけれども、ふーちゃんのヒロインがいまいち描かれていないのは、大人の事情で特出が発生しちゃったから、バランスがおかしくなったんだと推察します。2007年以降だと、『はじめて愛した』はわりと好きですが、これがまさに、DVから逃れようとするヒロインの話でした(ただし、命というテーマのほうでは、殺し屋が主人公なので無理がありました)。

長々語ってしまいましたが、今回はピノコ! ピノコがまさにこの「困難を乗り越える女性」なわけです。

スカステのまっつとの対談で、手塚眞氏が「女性はみなさん、ピノコになりたいとおっしゃいますね」と述べていましたが、そうなんです、私も原作を読みながらひたすらピノコになりたかったです。だってあんなに素敵な保護者に見守られているのですよ~。(今回も、バースデーケーキを前にしたピノコを、やさしく見つめるまっつブラックジャックに、うっとり~)そんな、感情移入しやすいピノコが、普通だったら死んでいるような状態から、蘇生?して成長するという、最大の困難を乗り越える。これが、感動でなくてなんでありましょう。だからこそ、ピノコが最初に歩く場面が、一幕の最後なのですね。

この、ピノコのほかに、人より寿命が長い一族のともみん、それを知って死のうとする婚約者せし子、ちょっとしたけがで人生を投げているさきな、といった複数の軸が同時並行的に進んでいくお話。原作にもあるネタなのかな? この軸たちが、最後にどどーっと合致するのかと思ったんだけど、そういことはなく、淡々と終わっていって、散漫な印象はありました。だけど逆に暖かい気分になったような気もします。

シンプルな背景は相変わらず。群衆のセリフを分割してコロスに言わせたりするのが面白かったけど、そもそも音楽の担当が高橋城先生ではないのかな? 

大澄れいが、それぞれ違う役なのに必ず「~でごんす!」と言うのが、非常に手塚作品ぽいというか、御茶ノ水博士がどの作品にも出てくるような、萩尾望都作品でオスカーがいろんな作品に登場するような、漫画的な演出でとても良かったです。

ともみん&せし子は、そのノリが別世界という感じで、外人ぽさがよく出てた。せし子は声がなー、声がよくなればいい女役なんだけどなー。

彩風咲奈はなで肩を改善するといいと思うのですが。ロミジュリ新公を映像で見たときは「すてきー」と思ったんだけど、今回はすごく女子っぽく見えて、その原因はジャンパーの肩だと思いましたですよ。

まなはるはピッタリな役だったなあ。きゃびいも。きゃびいのああいった固い役とか、舞園るりのメイドの固いしゃべり方とか、ハリー作品によくあるよね。

ピノコの桃花ひなちゃんがやっと大きな役でうれしいっすね。雛月乙葉ちゃんが、さあやみたいないい女になってた。

ブラックジャックの影のダンスがばっらばらで、宝塚ってそういうものだけど、さすがにバラバラすぎたような。

ホタテ! ホタテマンの演技、昔から好きなんだー。間の取り方がうまいもん。ハリーが気に入るわけだ。こういう役が、ちゃんと成立しているから、「物語」の奥行が感じられるんだよね。だって、別にこの役、ストーリーには直接は関係ないじゃん。でも、「物語」の世界がリアリティを持つには、必要なの。最近の宝塚は、キャラクターという「記号」とストーリーだけで芝居を作っていることが多いんだよなあ。だから平面的なんだよなあ。

そして、まっつ! ブラックジャック役は地としか思えない、ツンデレぶり! 放って置くかと思えば助け、親しげかと思えばつき放し、それらが全く分裂していない、ブラックジャックとして生きている! 小柄なのに威厳があって、ソファに座ってる図なんかめちゃめちゃかっこよくて。ふわぁ~、やっぱりピノコになりたいなぁ~。

ハリー作品は、やっぱりハリー役者があってこそなのかな、とも思ったり…ハリーにとってのキモはそこなのかもしれないですかね。そう考えると、キャラクター重視で、浅薄なストーリーばかりやらされている今の生徒たちが、「生きててもいいんだ」というような深く切り込むような話を演じたり、ストーリーに直接関係なくても世界を構築するうえで必要な役を形したりするのは、やはり困難で、ハリーの食指が動かないのは仕方がないのかも、しれません。

唐突ですが。今後、TTPに参加すると、医療もアメリカの食い物にされて、お金持ちしか救急車に乗れないような世の中になってしまうそうです。そこでふと気づいた。ブラックジャックが、法外なお金を取ったり、逆に全く取らなかったりするのは、命がお金に左右されるという現実に対するアンチテーゼだったんですね。何十年の前の作品だけど、世の中が向っている方向性は変わっていない、むしろ悪いほうに向かっているというわけで…。ブラックジャックは、そうした悪を成敗する、ある意味夢のような世界。宝塚で演じるには、ピッタリなんだな、と改めて思いました。
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