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タカラヅカへの愛なら誓える [ヅカってなんだ?的記事]

いとこの結婚式に行った。カタコトの外人牧師が「スコヤカナルトキモー、ヤメルトキモー、チカイマスカー?」とか言ってて、笑えた。これなら自分も結婚式やってもいいかも。

…いや、待て。待て待て待て。

自分、キリスト教徒じゃないし。夫婦愛とかいまいち信じてないし。信じてない神に、信じてない愛を誓う、とか、無理だ。八百万の神ならまだしも…、うーん、でもやっぱ無理だ。夫婦愛も努力目標ならともかく…、いや、でも自分の傲慢さではあまりにも高すぎる目標だから、誓うなんてとてもとても。

じゃあ、何なら誓えるのか。小林一三翁の像の前でタカラヅカへの愛なら誓えるのか。

誓えるな。うん。

おいおい、即答かよ、自分。

信仰や夫婦愛は誓えなくても、タカラヅカへの愛なら誓えちゃうって、なんなんだろうなあ。そう思わせるものが、タカラヅカにはあるよ。

信仰や夫婦愛は体制に利用されることが多いけど、乙女ちっくな趣味は反体制だから、かな。信仰も夫婦愛も、もちろん素晴らしいものだけど、でも神の名のもとに戦争が行われちゃったり、富国強兵の名のもとに結婚出産が奨励されちゃったりするから、ちょっと抵抗があるんだよね…。

乙女ちっくな趣味はちょうどその逆で、一見すると体制寄りなんだけど、中身はアバンギャルドだから。タカラヅカって政治家とのつながりがあったりして、ストーリーもどちらかといえば保守的だし、男尊女卑に見える。でも、そのじつは乙女の危ない妄想がうじゃうじゃとひしめいていることからもわかるように、乙女だけの妙な世界が構築されて、外の視点が全く通じないというか、そんなものがあること自体意識すらしてないんだよね。その存在自体が、キラキラしたものを愛すること自体が、もはや反体制。

『愛と青春の宝塚』を私が大好きなのは、彼女らの健気さが、一見戦争に利用されているように見えながら、本質的にはまったく逆だからだ。彼女らが健気に 歌えば歌うほど、戦争がおろかに見える。彼女らの歌に兵隊さんが泣けば泣くほど、戦争が美化されるのではなく、あってはならないことだと明らかになる。「宝塚は今日の日本に不必要な存在です」と言われても、彼女らはタカラヅカを愛していることをやめないし、「女衒だ」と言われても、脚本家はいい脚本を書きたい。その思いは消えない。

汗水流して頑張っているタカラジェンヌは、世間のルールに則った「いい子」をやってるように見えるかもしれないけど、じつはそうじゃない。まったく別のルールで、清く正しく美しくをやってる。その「清く正しく美しく」は、信仰や夫婦愛のように現世のしがらみを纏っていない。少しも汚れていない。善のイデアであり、美のイデア。この世に存在しえないはずのもの。だから、たとえ努力目標でも、それに向って努力しようと心から思える。

「宝塚は滅びひん、この嶺野白雪が言うんやから、ほんまや!」と啖呵を切るトップスター リュータンさんに、「ステキー!」と叫ぶこの思いは、タカラヅカが内在しているアヴァンギャルドさへの、その美しさへの、そしてそれを一身に背負っている巫女さんたちへの、信仰心なんだ。つらいときに「リュータンmy Love」と歌って元気になるベニに感情移入するのは、アヴァンギャルドな「清く正しく美しく」に、自分がいつも勇気づけられているからなんだ。

…宗教じみてるだけに、変なしきたりとかも多いけどね…。しきたりやしがらみに惑わされず、病めるときも健やかなるときも、「清く正しく美しく」に向って努力することを、小林一三翁に、えっと、あと誰だ、春日野八千代様に、誓います。

::::::::本家はコチラです→a posteriori takarazuka:::::::
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