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復活の原作と島村抱月版 [観劇メモ]

千秋楽ですが、やっと原作を読み終わりました。

ひじょーに面白かった。宝塚版とは全然違った。

ネフリュードフもカチューシャも、清らかじゃない。腐敗してる。ネフリュードフは貴族の退廃に浸りきってるし、手籠にする場面はほとんどレイプだし、カチューシャも洗濯女なんかするよりきれいな服が着られる娼婦のほうがマシ、と考えてる。でも根っからの悪人なわけじゃない、ロシア社会がそうさせている。

そんなふうに、次々登場する貴族や官僚や、囚人、小作人、革命家たちによって、ネフリュードフが社会の悪を思い知らされる。そういうお話。カチューシャはきっかけではあり、軸でもあるんだけど、恋物語では全然ない。最後はキリスト教の「赦し」につながる。

ある意味、石田の改変、すげー。宛書きがすげー。

とにかく全員を善人にする。ファナーリンもミッシィも、腐敗してないことにする。宝塚だから。

そいでもって、社会を体現している貴族や官僚や、囚人、小作人、革命家といった、特徴あるたくさんの人物たちを登場させない。生々しいから。

一方で、それぞれの生徒に似合った役を、原作に登場するいろんな要素を使いつつも、まったく新しく作る。シェンボックなんて原作と全然違うし、きらりの役とか、姫花の役とか、それぞれに合った役を作ってあげてるわけよ。セレーニンは男役度アップさせてるし。

でも、そこが最後のオチのわからなさにつながってるんだな。

カチューシャは、ネフリュードフを好きだが、結婚はできない。シモンソンとなら結婚できる。それは、原作を読んでいると別に不思議ではない。どんなにネフリュードフ個人が誠実な人間でも、こんな腐敗した貴族社会にカチューシャを形だけでも結び付けることは、読者は納得できないもの。シモンソンなら、革命という希望につながる。

石田版だと、カチューシャがシモンソンやパーブロワを「素晴らしい人たち」だと感じたりする場面が、全然ないじゃないですか。それがあれば、まだマシだったと思うんだけどねえ。

ちなみに、島村抱月の脚本も読みました。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16036/index.html
松井須磨子のカチューシャ役で、「カチューシャの唄」をヒットさせた、1914年(宝塚初公演の年だね!)のもの。(アンリ・バタイユの脚本を翻案したんだそうです。)こちらは、すごく短くてあっさりしたもの。石田版よりもまだ社会の描写はあるが、ネフリュードフは善人。そして一番の特徴は、カチューシャのキャラ。なんというかね〜、当時の男の人がのぞむ、可哀想な気が狂った女、という感じなのよ。ものすごく感情の起伏が激しくて、哀れなの。髪振り乱してる松井須磨子の様子が目に浮かぶ。愛し合っているのに身をひく、的なニュアンスで終わっていて、ちょっと演歌入ってます。世間では「通俗」と言われたそうです。

春日野八千代&那智わたるの菊田一夫バージョンはどうだったのかな〜。

では、千秋楽行ってきます。
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