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「家庭的」であることの罪 [音楽学校裁判]

私は家族制度というものに喧嘩売ってるような人間ですが、そんな私でも「家族」と思う人たちがいました。それが、タカラヅカです。一三がお父さんと呼ばれていたように、家庭的であることがタカラヅカの特色の一つで、その心地いい一体感を私は愛していました。

なのに、私はその家族の一員ではなかった。裁判の過程で、ファンは家族の一員でもなんでもないとつきつけられた。それがショックだった。

でも、裁判記録を読んでいくうちに、そもそも、その「家族」というありかたが問題なのかもしれない、私が愛してきた「家庭的」な雰囲気こそが、問題の根っこにあるのかもしれない。と思うようになってきたのだ。悲しいことに。

なぜなら、音楽学校側の言うことにつきまとう不思議な感覚は、ひょっとしたら、ドメスティックバイオレンス法ができる前の、児童虐待という考え方ができる前の、「家庭に警察は入ってこないでください」的な考え方に近いのではないかと感じたから。

ドメスティックバイオレンスという概念ができる前、児童虐待という考え方ができる前、「女房は俺の持ち物なんだから殴ってどこが悪い」と言うようなオヤジがたくさんいたやに聞いております。「子どもは私の持ち物なんだから殴ってどこが悪い」と言うような親がたくさんいたやに聞いております。

いやいや、持ち物じゃないから。一人一人、人権があるから。

でも。

「音楽学校は、宝塚歌劇団ひいては申立外阪急電鉄とは別の組織ではあるが、営利企業である、申立外阪急電鉄の特殊な従業員養成期間ということになる。したがって、音楽学校は、学校法人として社会的私的かつ営利的なものというほかない。また、抗告人と被抗告人とのあいだの在学関係の法的性質は、私企業の特殊な従業員養成期間としての音楽学校の性格にかんがみれば、単純な私法上の取引契約と同視できるような個人間の在学契約といえる。」(2009.4.15 保全抗告申立書)

つまり「私的な関係だから首にしてもいいんです!」ってこと。

えーっと、雇い主と雇われ人であっても、無実の罪で退職させることはおかしいと思うのですがー。

「学校にとって大切なのは、(原告)さんの行為、行状が生徒として好ましくない行状をしたかどうかであって、被害者のコンビニが被害届けを出すかどうかという問題ではないと考えています」(2010.3.10 今西副校長陳述書)

いや、だからその行状は万引きしたかどうかという事実が肝心なのではないのかね? コンビニが事実は無いって言ってるのに? ひょっとして、少しでも疑いをかけられたら、それが悪い行状ってこと?

『マグダレンの祈り』という映画を思いだす。厳格なカトリックの精神に支配されたアイルランドで、実在した修道院の話。いとこに乱暴された主人公、なぜかいとこは一切罪に問われず、主人公は穢れた女ということで修道院に入れられ、刑務所よりひどい非人間的な扱いを受ける。家族、親戚は穢れた存在がいなくなって、安泰だ。自分たちはカトリックに背いていないという体裁をつくろえるから。でもその裏には、無実の人間が苦しんでいる。これらを、神の愛の名のもとに教会が率先して行っているというのが、また怖い。

私はつい、「一三の教えが受け継がれていない」などと言ってしまうけど、それもよくないのかもしれない、と思う。一三を神格化すればするほど、その子孫である小林家の家父長制を強化してしまう。一三の教えが全く受け継がれていないとしても。神をたたえればたたえるほど、教会や修道院の力を強化してしまう。神の本当の愛が全く実践されていないとしても。「清く正しく美しく」「家庭的な雰囲気」…素晴らしい教えなのに、間違った使われ方をすると、糾弾しにくい障壁にもなり、悪しきことの温床にもなってしまう。

昔はもっともっと家庭的だったはずだけど、実際のところどうだったのだろう。同じように排除された人がたくさんいたんだろうか。少しは良識のある人が上層部にいたんだろうか。わからない。知りたくない気もする。でも、少なくとも、それを表沙汰にしたらブランドが傷つくという頭ぐらいはあっただろうな。。。

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