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エリザベート ウィーン版(梅田芸術劇場 4/16 13:00) [観劇メモ(ヅカ以外)]

エリザベートって、こういう話だったんだ…!! 目からウロコでした。

エリザベートって、あの時代にしては自由を求めすぎる人だったか、それとも霊能力(なんて言うの? 感受性が豊かっていうか?)がありすぎた人なのか、つまりは特別な人なんだと思ってたんだけど、エリザベートだけがそうっていうわけじゃないっていうふうに見えた。みんながそうだった。自由になりたいけどなれない、抑圧に馴れてしまっている、退屈で退屈で、死に憧れてる。だから、エリザベートはみんなの代表なんだ。誰よりも自由を求め、誰よりも死に憧れてるけど、それはみんなの代表だからなんだ。

皇室ってそういうものなのかもね。日本は天皇制を「象徴」だって言ってうまくヤリクリしてるけど、美智子さんは嫁姑問題、雅子さんはメンタルヘルス、というように、はからずも時代の空気を代表してる。ダイアナ妃もそうだ。我々も彼らを、エリザベートのように時に崇め奉り、時に攻撃し、時に覗き見、時にうらやんでいるんだ。義務を果たせと言う人もいれば、おかわいそうにと言う人もいる。それは、自分たち平民の社会にもそういう構図があるからにほかならない。さすがにタカラヅカではそういうヤバイ思想は排除したんだねぇ。(ほかにも、性病とか、子供の死を排除したように。)

それに、タカラヅカがスターシステムだからこそ排除された部分もある。本当はフランツやゾフィーもエリザベートと同じように、自由を求めていたし、死に憧れていた倦んだ人たちだってことだ。ゾフィーがエリザベートに自身の考えを強要したように、フランツはルドルフに強要してる。フランツがエリザベートを見捨てたように、エリザベートはルドルフを見捨ててる。エリザベートだけが特別なわけじゃない。やっぱりエリザベートは彼らの代表に過ぎないんだ。

トートは予想外にマッチョでセクシーだった。暴力的という点では姿月あさとのトートに似てるかも。あんまり愛情ゆたかではない。でも矛盾は感じない。なぜなら。

タカラヅカのエリザベートという作品は、いつも「危ういなあ」って思っていたんだ。スターシステムゆえにトートを主人公に、エリザベートを特別な人にしてあるから、「死が人を愛するなんてことがあるだろうか?」って台詞どおり、死を擬人化するというフィクションが成立しづらくなる。エリザベート役にあまり狂気が感じられない場合、トートがエリザベートの分身であるという作者の最初の設定が成り立たなくなってしまうし、トート役が主役たろうとしすぎて積極的にエリザベートに関わろうとしない場合、死が人を愛する筋書きそのものが危うくなる。

だけど、みんなに見えるものなら、時代の空気そのものなら、誰もが憧れている死であるなら、役者がどうであれあんまり違和感がないんだなあ。そこにあって当然っていう前提になってるから。

ルキーニは、たとえば星組バージョンではトートと密接にコンタクトをとっていたし、花組バージョンでは一切関わっていなかったけど、ウィーン版ではなんとトートをおそれているように見えた。ルキーニもまたエリザベートと同じなんだなぁ。疲弊しきった社会に倦んで、死に憧れている、そしておそれている。

「グランドアモーレ、偉大なる愛!」ってのは、トートのエリザベートへの愛ではなく、人間の死への愛、なんだな。…なんだか、おもーい気分で劇場を後にしたのでした。。。

それを救ってくれたのは、抽象的で面白いセットだったかもしれない。ルキーニの凶器ヤスリをモチーフにしたという跳ね橋。映像を多用しても陳腐ではないモダンアートな雰囲気。カフェの民衆がゴーカートに乗ってるのにはビックリしたなあ。現代に通じるテーマであることを示しているんだろうけれども、直截的ではなくて、いったん昇華したものであることで、瑞々しく感じた。

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